『蜜月〜 La lune de miel（ラリュンヌドゥミエル）』
蜜月 ４
素敵なはずだったディナーも終わりを告げ、あたしは急に居心地が悪くな
った。
「マリナ…マリナ」
あと、することは…
…
…
あたしはっ、ずっとテーブルについててもいいんだけどね！ ははっ。
「マリナ…皿には何ものっていないぞ。…何を食べているんだ？」
あたしのフォークは空しく宙をかいていた。
「それとももっと持って来させようか？」
って言われたんだけど…普段なら願ってもない言葉なんだけど…もう、ム
リ。
おなか、というか、胸がいっぱいで。
なんかソンした気分。食べた物、どこにはいっちゃったんだろう。
「シャルルこそ、ずいぶん飲んでない？ ワイン」
あたしがそう言うと、シャルルはふいと横を向いて頬杖をつき、ぽつりと
こぼしたの。
「酔えなくてね…」
そうしてふうっと顔をあたしに向け、まるで夢でも見ているみたいな表情
をしたの。
いつの間にか夜もふけ、辺りの闇は一層濃くなったのに、逆にシャルルの
存在がまるで浮き彫りのようにくっきりとあたしの前にあった。
白金の髪が細かな光を放ち、まるでそこだけ闇の立ち入るのを拒否してい
るかのようだった。
シャルルは、ここからだとグレーに見える瞳を伏し目がちにして、ワイン
で濡れて輝く唇を切なげに開いた。
「マリナ…ここに入ったの、後悔してる？ ずっとこのままテーブルにつ
いているつもりかい…？」
あたしは慌てて首を振った。
「そ、そんなことない。ただ…なんかいつものあんたとはまるで違う、別
人みたいに感じちゃって、ちょっと…コワかったの。ごめんなさい、変な
態度とって。ゆ、勇気が出なくて…」
やっと、言葉を押し出して、気がついたらすぐ横にシャルルが立っていた
。
燭台の幽玄な明かりに照らし出された、美貌の姿があたしをじっと見下ろ
している。
近づきたいのに、そうすることが出来なくて…。
「オレだって…怖いさ。君に拒まれているんじゃないかってね」
そっとあたしの手を、取る。そしてその甲に優しく唇を押し当て、
「マリナ…オレに勇気を…」
すがるようにあたしを見つめる。
その表情に胸をつかれ…あたしは立っているシャルルの腰あたりに頭をす
りよせた。
シルクの肌触りを通して、シャルルの体温が感じられる。
シャルルはそのあたしの頭をおそるおそる抱え込むように片手を回し、ゆ
っくりと絨毯に膝をついた。
椅子に座るあたしと、ひざまずいたシャルルはちょうど同じ目線になる。
…でも、お互い顔は見れなかった。
あたしはくせのない、綺麗な絹糸のような髪をかきあげ、そこに顔をうず
めた。
久しぶりに触れるシャルルは、とても熱かった…。
そうしてゆっくりと腕を回し、シャルルの頭を抱き締める。
シャルルを感じ、シャルルを呼吸する為に…。
平気…ちっとも、怖くなんかない。バカだった、あたし…シャルルはシャ
ルルなのに。
ふと顔をずらし、きれいな形の耳に唇を寄せる…。
（シャルル、すき…大好きよ）
囁いて耳たぶにキスをすると、まるで電流が流れたかのように、あたしを
抱くシャルルの腕に強く力がこもる。
あたしはかまわず、そのまま首筋へと唇を滑らせ、そうして優しくその天
使の頬にキスをした。
あたしたちは秘やかに笑いあい、…やっとお互いの瞳をのぞきこむ。
シャルルは安心しきったようにうっとりと目を細め、あたしの髪一筋、表
情ひとつも逃すまいとその視線をさ迷わせる。
やがてその視線はあたしの唇にたどり着き、釘付けになる。
するとふうっと挙げられた繊細な指先がそこに触れ、まるで絵を描くよう
にあたしの唇を縁取った。
じらされているみたいで、あたしはたまらず、その憎らしい指先を軽く噛
む。
それがきっかけとなり、シャルルはふっとあたしの唇に自分の唇を重ねた
。風のようなキスであたしの様子を見、あたしがそれをもっとねだると、
満足そうに吐息をもらし、今度はお互い深くくちづけた…。
シャルルの熱い舌はあたしの口中を暴れまわり、あたしは嵐の中でもまれ
る木の葉のように、されるがままだった。
闇の中に唇を味わう音だけがひっそりと響き、その音が更にまた深い口づ
けを呼び起こす。
あたしは夢中でシャルルの首もとに抱きつき、彼の想いを受けるのに必死
だった。
でも確実に、自分の芯に熱いものがこみあげてきているのを感じ、慌てる
。
こ、このままじゃこんなとこ、で…。
あたしは自分の欲望を抑え切れなくなる前に、益々激しくなる唇を、なん
とか離した。
シャルルは驚いてあたしを見つめる。
「ちょ…と待って、シャルル。あたし、あんたのワインに酔っちゃいそう
、よ」
荒い息を繰り返しているあたしの肩を、じわりと自分の方に抱きよせ、シ
ャルルは再び唇を合わせようとした。
伏せられた長いまつ毛、傾けられたその繊細な頬、その下に隠された容貌
とは裏腹な、激しい情熱…。
シャルルのなにもかもが魅惑的で、あたしはクラクラと目眩がした。
「だ、め…」
その端正な唇をかわすと、ぐいと顎をつままれ強引に唇を奪われそうにな
る。
「いや…だめよ、シャルル」
「マリナ、止められないよ…」
「だ…だめっ、恥ずかしい、よ」
「何も恥ずかしがることなど…」
「だめっ、たら、ダメっ。待て！ よ、シャルル！」
あたしは火照る頬をおさえながら、さっき自分が言われた暴言を言い返し
てやった。
今度こそ本当にシャルルは驚いて、釈然としない表情であたしを見返した
。
「あ、あのね、今日結婚式とかで結構疲れて、汗かいたし…シ、シャワー
くらい使わせて…っ」
せっかくこんな素敵な部屋にいるのに、こんななし崩しなんて、やーよっ
。し、少女マンが家のサガが許さないわっ！
なんとなく自分に言い訳してるみたいだったけど…心の準備くらいさせて
っ。
シャルルは脱力したように肩を落し、そして、よーく見ると、笑ってる！
「なんだよ、マリナちゃん。君は本当に天の邪鬼だな、いつもの信念はど
うした？ 今日に限って適用外かい？」
シャルルは手で顔を半分覆い、おかしそうに肩をふるわせていた。
そうよ、今日は特別なんでしょっ。なんと言われようが、いいわっ、ふん
。
そのうちシャルルは笑いをスッと抑え、赤い顔でふくれているあたしの頬
に、優しく手を差し伸べた。
ブルーグレーの瞳に真摯な光を宿して、あたしの心を見透かすようにこう
聞いたの。
「逃げたりしない…？ マリナ」
…。
「…うん、そんなことしない。あたしだって…シャルルに抱いて、もらい
たいもの…」
途端にシャルルはあたしの腕に手を伸ばし、強く力を込めた。突然激情に
かられたかのように…。
驚いているあたしの前で、意志の力でそれを抑え込み、わななくように吐
息をつく。
「…あまり、可愛いことを言ってくれるな、マリナちゃん。せっかく抑え
たものが、また暴れだしちまいそうだ」
切なそうにシャルルはあたしに背を向けた。
ご、ごめんなさいっ。
「では、姫の気が変わらない内に、部屋へ案内しましょう」
シャルルはきどって一礼し、正面奥の重々しそうな樫のドアを開けた。
そこは”夜のバラ園”だった。
ううん、言い方がお粗末だったかしら…でも、そうとしか言い様がないの
。
ドア口から毛足の長い濃紺の絨毯が、２０畳はあろう部屋一面に広がり、
あたしは宇宙に放り出されたかのような錯覚に陥った。照明は極、抑えら
れていて、アンティークなライトスタンドが数台、壁際にぐるりと部屋を
囲むように配置され、温かみのある静かな光を放っていた。
そして天井には天窓があり、そこから差し込む夜の淡い外光がある物を照
らし出していた。
あたしの目は奪われた。…それはひとつの世界のようだったから。
キラキラと輝く星を抱いた、夜の帳のような天蓋をかけたベッド。
それは暮れかけの淡い夜空から、星々の囁きが聞こえてきそうな深夜の空
までを物語った、まるで布とは思えない見事な色使いだった。
その夜に見守られ、大きなキングサイズのベッドが夢を見るように、あた
したちを待っていた。
…そして調和の取れたこの夜の中に、浮かび上がるように咲き誇るバラた
ち。そう、いたる所にため息が出てしまいそうな、美しい白バラが飾られ
ていたの。
あたしはその香りに誘われるように、ふらふらと部屋に足を踏み入れた。
呆然と辺りを見回し、あまりの綺麗さに声も出せなく、そこに立ちつくし
ていた。
「…気に入った？」
そのあたしの感動を邪魔しないように、背後から囁くようなシャルルの声
が聞こえた。
あたしは小さく首を振りながら、
「素敵すぎて…言葉が出ないわ。なんて部屋なの…」
「良かった、造ったかいがあったよ」
あたしは驚いて、横に来たシャルルを振り仰いだ。
「えっ、もとあった部屋じゃないの！？」
「ここは全面的に改装したんだ。…シチュエーションにこだわる女性がい
てね。ねぇ、少女マンガ家さん？」
う、バレてる。
あたしは分が悪くなったのを感じて慌ててその場を逃げ、あの素敵なベッ
ドを見に行った。
その芸術ともいうべき天蓋を作っている布地に手を触れる。
綺麗ねぇ、マンガ家のあたしだってこんなロマンティックな演出出来ない
わよ。
きゃ、このベッドの肌触りっ。これってベルベットよぉ、瑠璃色のベルベ
ットなんて初めて見たぁ…ん？
どうもさっきから天蓋にくっついてるキラキラが目につくな。
んん？ スパンコールやラメとかじゃないわね。小さいけど、こ、このブ
リリアントなカットてまさか…。
「シャルル、これってもしかして」
「ウィ、ダイアモンドさ」
こともなげにシャルルはそう言ったのぉ。
き、きゃ〜！ 嘘でしょーっ、一体何個ついてんのよっ、ホントに星の数
ほどあるわよっ。…この布地一枚くらい拝借してもわかんないんじゃ…。
あたしがそーっとサテンの布を引っ張った時…
「マリナ」
来たっ、いいじゃないこんなにあるんだからっ。恵まれないマンガ家に、
愛のダイアモンドをってねっ。
あたしが肩をすぼめていると、シャルルはゆっくりとベッドに腰掛け足を
組んで、ついとあたしを見た。
「そんなことしなくても、これは全部君の物だろ。マダム マリナ・ドゥ
・アルディ？」」
妖艶な微笑を浮かべて、シャルルは光を孕む白金の髪をかきあげる。
そして、懐かしいものでも見るように、優しい思いを眼差しにこめた。
「…いつか言ったろ。オレの手にできるもの全て、みんな君にやると」
途端にかつての様々な状況が思い起こされて、あたしの頭を占領した。
あたしたちはそうやっていろいろ乗り越えて、今こうして見つめ合ってい
る。シャルルはあの時と変わらない愛を抱いて…。
あたしは急にシャルルが愛しくなり、キスして欲しくて目を閉じた。
…だけど、いつまでたっても彼の唇はやってこず、不信に思って片目を開
けると、シャルルは硬く瞳を閉じ自分で自分を戒めるように強く両腕を掴
んでいた。
「マリナ…」
そして確実に怒っているであろう声音で言い放った。
「お前はオレで遊んでいるのかっ。今度そんなことしてみろ、もう問答無
用で襲うぞ！ わかったなら早く部屋へ行けっ。左が君のだ！」
ひゃ、ひゃあーっ、あんなムードを作るあんたが悪いのよぉっ。
あたしは転げるようにして、左側の壁にあるドアへと飛び込んだ。
はぁ、はぁ、あー怖かった。
さてと、シャワールームはどこかしら？
キョロキョロと部屋を見回すと、床やらテーブルやらチェストの上やらに
、たくさんの荷物があった。
床のはきっと旅行のカバンよね、うわっすごい量じゃないっ。
こっちの小包の類は…わあ、みんなプレゼントだっ。あ、なんかつまむも
のないかしら、なんかリラックスしたら小腹が…。
ごそごそやってたその時、ひと際目を引く美しいワインレッドの箱が出て
きた。
ははーんと思ってその箱を開けると、一本の紅いバラと、綺麗なメッセー
ジカードがあった。
やっぱり、薫からだわ。
と思ったら和矢に美女丸、ガイにおまけにカークの著名までっ。
えっ、みんなからってこと！？
あたしは慌ててカードを読んだ。
「えーと、”親愛なる腐れ縁、マリナ嬢。この度は結婚おめでとう。ここ
だけの話だが、お前さんに言い寄ってた男の中でも、特にクセの強い奴な
んかと結婚することないだろうに。苦労は目に見えてるぞ。”…わかって
るわよ、余計なお世話っ。…”まぁ、あたしがどうこう言ったところで、
頑固なお前さんは聞く耳持たんだろうが。”…よくわかってるじゃない。
…”言い換えれば色々障害があってもいいと思えるほど、奴のことを愛し
ているんだろう。”…改めてあんたにそう言われると、テレるわね。…”
あいつはあたしの命の恩人でもあるし、ま、お前さんを任せても大丈夫だ
ろう。マリナ、どうか幸せになって欲しい。あたしがこうして生きていら
れるのも、お前さんたちのおかげだ。その二人が真実の愛をつかんだこと
を、心から祝福する。そしてこれからも、変わらぬ友情を誓うよ。どこに
いても、お前さんたちの幸せを祈ってる。結婚おめでとう。 響谷 薫”
…薫、ホントにありがとう。あんたにそんなに言ってもらえて嬉し…んん
？ なになに、
”追伸、このプレゼントは連名になってはいるが、あたしが選んだものだ
。他の男どもに見せようものなら、妙な妄想にとり憑かれそうだからな。
特に天然記念物のルーカスに鼻血でもふかれて、倒れられてもあたしゃ責
任持てんしな。もしシャルルの了解が取れたら、写真でも撮ってヤツらに
見せてやってくれ。シャルルによろしく。”
…なにこれ…」
あたしはイヤーな予感がして、おそるおそる箱の中身を探った…。
！！
…
かーおーる〜、あんたって人はー！！
あたしはしばらく固唾を飲んでそれを見つめていたけど、考えるのは後ま
わしにしようと思った。
あたしはシャルルと一緒に過ごす為にここにいるんだ。とにかく今は…行
動しなきゃっ。アレのことは…シャワーを浴びながら考えるわ。
頭を切り替えた…つもりで、バスルームの扉を開けると正面に大きなゴシ
ック調の姿見があって、一瞬あたしはギョッとした。
薄暗闇に浮かび上がる自分は不思議と艶めいて見えて、あたしは妙に恥ず
かしくなる。
服を脱ぐのが躊躇われたけど、あたしは意を決しバスルームへと足を踏み
入れた。裸足に冷たいタイルが心地良かった。コックを捻ると古めかしい
真鍮のシャワー口から透明な湯がほとばしり、あたしの肌を打った。
しばらくそうして熱いお湯を浴びていると、いろんなしがらみがそれに溶
けて流されて行き、最後に残ったのは、シャルルのあの大輪の笑顔だった
。
胸が疼く。シャルルが恋しいと…。
まるで時が止まってしまったかのようなこの館の中に、微かな水音だけが
密かに響き渡った。一種の緊張を孕んだ濃密な空気があたしの体に纏わり
ついて、身動きするのが苦しい。
あたしはわかってるの、ここから救い出してあたしに息を吹き込んでくれ
るのは一人しかいないってこと…。
シャルル・ドゥ・アルディ、彼一人だってことを…。
蜜月５
キ…ィ…
いつもは気にならないような音でも、それが妙に大きく響いた気がして、
あたしはびくっとした。
そっとドアを押し開け、シャルルが待っているであろう部屋に視線を向け
る。
壁際の照明はすっかり落ちてい、そのかわりに天窓からの外光が静かに降
り注ぎ、その部屋は一層幻想的な雰囲気を醸し出していた。
漂うバラの香りにあたしは緊張のあまり、むせかえりそうだった。
ベッドを覆う夜の帳は今は両脇が開け放たれ、一番薄いペールブルーのレ
ースのみがかかっていた。
そのレースを通して…いた。
闇の中に異彩を放つ、あたしの恋人シャルルが…。
大きな羽枕に背をもたせかけ、素晴らしく均整のとれたその長身をベッド
に横たえて、おそらくシャンパンであろう…を気だるげに飲んでいた。
…あたしは、足元の絨毯の変わり目を、暗闇の中見つめた。
あと一歩踏み出せば、シャルルは絶対あたしに気づく。あと、一歩…。
そうなったらもう後戻りは絶対出来ないわ、マリナ。あんた、平気！？
あたしは無駄ともいえる自問自答を繰り返しながら、きつく唇を噛んで裸
足の爪先を見つめていた。
その時、僅かに空気が動いたのがわかった。
そっと目をこらすと、シャルルはシャンパングラスをサイドテーブルに置
き、そのまま完全に身を横たえたの。
すると驚いたことに、最近まったく耳にしなかったシャルルのフランス語
が聞こえてきた！
「…ジュレストゥトゥジュールフィデル。テュエマルミエー、マリナ…」
つぶやくように、本当に小さな声で…。
フランス語独特の低くくぐもったような響きが、微かにあたしの耳に届い
た。
シャルルって日本語があんまりにも上手だから、時々フランス人って気が
しないのよね。でも…あんなふうにフランス語発音で自分の名前呼ばれた
ことないから、なんだかドキドキするわね…。
その時、耳につけた翻訳ピアスが律儀に作動して機械的な音声が流れてき
、あたしは飛び上がるくらいびっくりした。
アルディにいてもみんな日本語使ってくれるから、最近これのことすっか
り忘れ…。
聞こえてきたそのセリフに、あたしは…あたしは…。
『オレは君に常に忠実だ。君はオレの光なんだよ…マリナ』
それはあたしの心でシャルルの言葉となり、まるで植物が水を吸うように
、全身へと染み渡っていった―――
見えない壁が立ちふさがっているのかと思われたその部屋の境界線から、
あたしは自然に足を踏み出した。
そうしてゆっくり…シャルルへと…近づいていく。
その気配に、はっとしたように身を起こしたシャルルは、ベッドの右側に
あたしに背を向けるように腰掛け…
「遅かったじゃないか、逃げられたかと思ったぜ」
その明るいくだけた口調は、あたしに緊張させないように、無理に明るく
振る舞っているみたいだった。
そして立ち上がり、その白い肌によく似合う象牙色のガウンを翻し、カー
テンごしにあたしを振り返る。
「逃げずによく…」
瞬間、空気が一気に緊張したのがわかった。
シャルルが、あたしを見ている。
レースごしでもわかるくらいの痛い視線が、あたしに注がれている。
でもあたしは逃げたりしない。
心臓の鼓動は早鐘のようで、呼吸をするのも大変だったけど。
両手の平にはじっとりと汗をかき、でも口の中はカラカラに渇き、言葉も
発せないくらいだったけど。
そして、生まれて初めて着るこの装いが、死ぬほど恥ずかしかったけど…
！
ベッドを挟んで、あたしたちはしばらく身じろぎひとつ出来ずにいた。
でも、その緊張を破ったのはシャルルだった。
自分の前のレースを勢いよくくぐり、ベッドの上を乗り越えてあたしの側
にやって来た。
そのおよそシャルルらしからぬ荒々しい行動にあたしは驚き、同時に叱ら
れるのを待っている子供の罪悪感みたいなものが、胸にこみあげた。
破裂しそうなほどの鼓動を刻む心臓を、強く握った拳で押さえつけ、あた
しはまた目線を落とす。
どうしよう、ああっ、あたし、こんなかっこでホントに出てきちゃうなん
て…、変に思われたかも知れないっ。
再び後悔の波が襲いかかり、あたしは激しく動揺した。
やがて、気配がしてシャルルがこちら側に下り立ったのがわかった。
意志の力を総動員して、あたしはなんとか視線を上げ、…そこに、薄闇に
呆然と立つシャルルを見た。
ぼうっと浮かび上がる象牙色のガウンを素肌に羽織ったシャルルは、匂い
立つほど美しく、…そしてとてもエロティックだった。
思わずうっとりしそうになったけど、それだけで彫像として完成されたよ
うなシャルルは、本当に凝固したように動かなくなってしまったっ。
あと二、三歩進めばあたしまで来られるのに…ああっやっぱり呆れてる！
？ 薫になんか、のせられるんじゃなかっ…
パニック寸前までいったあたしの目の前で、途端にシャルルはベッドに座
り込んでしまったのっ！
開いた両膝に肘をのせ、苦悩するみたいに上半身を折って前屈みになり、
小さく頭を振っていた。
ふえ〜ん、部屋に戻りたいー。時よ、戻ってぇ。
あたしがバカなお願いを神様にねじこんでいると、シャルルはその片手で
顔を覆い、ゆっくりと起き上がるところだった。
ああっ、正視に耐えないほどなのかしらっ。
シャルルは何度も開きかけた口を閉じ、まるで言葉を知らない人にでもな
ってしまったみたいだった。
あたしが心配になってよーく彼を見ると、…驚いたことにその雪花石膏の
肌が真っ赤だったの。
えっ、な、何！？
「そ、その…格好、どうしたん、だい…？」
やっと絞り出した言葉はひどく弱々しげでなんの飾りもなく、視線はそれ
こそ覆った手の隙間からという、なんとも頼りなげなものだった。
あたしは急に恥ずかしさが頂点に達し、少しあとずさった。
「ご、めん。変だよ、ね。待ってて普通の着て…」
「マリナ、行かないで！ ち、違うそうじゃなくて…来てマリナ、君から
…。オレは動けそうもないんだ。頼むよ…」
白金の髪を揺すりながら、きつく眉根を寄せそう懇願するシャルルは、ま
るで泣きそうになっている子供のようだった。
あたしは、覚悟を決めゆっくりとシャルルに歩み寄る…。
近づいたあたしをシャルルは開いた膝の間に招き入れ、完全に自分で囲っ
てしまった。
あたしは目の前にきたグレーの瞳を覗きこむ。切なげに細められたその瞳
は、抗いがたいほどの甘美な誘惑と欲望に、今にも屈服しそうだった。
シャルルは何度も息を飲み、初めて見るあたしの装いを、まるで手探りみ
たいに触れていた。
そしてその裾を僅かに持ち上げ口づけると、ゆっくりとあたしに瞳を向け
る。
「素敵だよ…マリナ。最高に、可愛い…。ああ、どんな言葉も陳腐になっ
てしまうな…」
シャルルはそう言うとあたしの手を取り、自分の胸元へと導いた。
その肌は灼けるように熱く、触れたそばからわかるくらいの激しい鼓動が
感じられた。
「わかる…？ オレがどんなに君を求めているか…？」
「うん…。あたし、おかしく、ない？」
「言ったろ、とても可愛いさ。…いけないことを考えてしまいそうなほど
ね…」
まだほんのり赤い頬で、シャルルはいたずらな光を瞳に宿し、そっとウィ
ンクした。
いや〜、そんなこと考えないでっ！
「それで、どうしたんだい？ この素敵な装いは」
「みんなの連名になってたけど…薫が選んでくれた、結婚のプレゼントだ
って…せ、せっかくくれたんだから着ないのも、悪いかなと、思って…」
あたしは恥ずかしさを隠しきれず、ぎゅっと目を閉じてしまった。
あたしが着ているもの…それは純白にほんのりピンクがかった綿あめ色の
…
ベビードール…なの！
両肩はシルクのリボンで結ぶようになっていて、胸元と裾にはぐるりとつ
いたふわふわのファー。
サテンシルクの薄い下地に、可愛い小バラを織り込んだ繊細なレースが二
重に重なって、可憐さをアピールしていた。
前開きになった身ごろのそれも、３つのリボンで閉じるようになっていて
、シャルルはそのリボンを右手の指で弄んでいた。
あたしはそのシャルルの指にドキドキしながら、体をかたくしていた…。
すると、あたしの言葉を聞いて軽い驚きを見せながら、シャルルはこう言
った。
「ヒビキヤが…！？ ふふ、あいつは本当に感性が男並だな。まったく、
やってくれる…」
「シャルル？ う、嬉しかったの、このカッコ」
「…あいつとの過去の遺恨を、水に流してもいいと思うくらいね」
薄闇の中、あたしの着ているベビードールを満足げに見つめながら、シャ
ルルは小さく笑った。
その時あたしははたと思ったの。
もしかしてこれは、薫なりの仲直りの仕方だったんじゃないかって。だっ
てシャルルは、あたしの旦那さまになっちゃったんですもん、いくらなん
でも無視し続けるわけにはいかないものね。
…でも、あたしをダシになんてことしてくれるのよっ、まったくメーワク
だわっ。
見てよこれっ、裾はお尻の半分くらいまでしか隠れないし、おまけにお揃
いのパンツなんか総レース！ これもサイドはリボン止めだしっ、ほとん
どはいてないも同然じゃないっ、恥ずかしいっ。
ああっ、とにかくこれ自体はすごくかわいいのに、なんであたしが着ると
すごくエッチっぽいのかしら！？ 子供体型だからっ？
シャルルはそんなあたしの焦りなんかおかまいなしで、左手の甲であたし
の膝からふと腿までをするりと撫で上げた。
瞬間、さわりと鳥肌がたち、あたしは震える。
シャルルはそのあたしの様子を見逃すはずもなく、いじわるそうに微笑ん
であたしの顎をつまみ、自分へと向ける。
まるで眩しいものでも見るみたいにきつく目線を絞り、その青灰の瞳は欲
望に屈したのか、やるせない光で歪んでいた。
昼間垣間見せる天使の表情はどこにもなく、…そこにいるのは一人の男だ
った。
唯一人の女を追い求める為、堕天した禁断の天使…今その美貌の人は、そ
の熱い魂で、あたしを灼きつくそうとしていた。
ふわりとあたしの顔を大きな両手で覆い、そうっと自分へと近付けていく
。
あたしには抗う術もない―――
「マ、リナ…ああ、マリナ。君はどこまでオレを乱せば気が済むんだ…？
マリナ、オレの理性はもう、こなごなだ…」
狂おしそうに吐息をつき、あたしをのぞきこむシャルル。
あたしは絹糸のような髪をかきわけ…ゆっくりとその熱い肌に触れていき
、シャルルの首に腕を回した。
「何があっても…、その手を離さずにいるんだよ…。オレを壊してもいい
と、思う程…しっかり捕まえているんだ…」
あたしたちは引力が引き合うように、唇を合わせ、何度となくお互いの美
酒を飲み交わした。
シャルルはあたしの頬を、あたしはシャルルの首をつかむ手に力をこめる
。
自分以外にその意識、一流れでも逸らすまいと―――。
信じられないほどの力であたしの腰を引き寄せ、シャルルはその唇を顎か
ら首筋へと滑らせて、あたしを翻弄した。
求めても与えられない快楽に、あたしは身を捩り、放っておかれた唇は行
き場を求めてさ迷い、声にならない悲鳴を上げた。
シャルルのシルクのような舌は、あたしの肌を容赦なくなぞり、その肩や
耳に歯をたてていった。
鈍い痛みはそのまま快感となり、あたしの体を突き抜けていく。
まるで全てを吸いつくされたように、体から力が失せていき、体を支える
こともままならなくなってきた。
「シャルル、シャ…ルル、もう立っ…てられない、よ…」
あたしはそうシャルルに懇願して、抱きつく腕に最後の力をこめる。
定かでない視界に、上気しているであろうあたしとは正反対なほどの、冷
ややかで覚めるような美貌が現れた。
薄闇にグレーに輝く瞳は、星を宿したように冴々と呼吸し、端正な薄い唇
は濡れて艶かしく光っていた。
その奇妙なまでの冷酷な表情に、あたしは心奪われ、これから訪れる運命
を予感させた―――。
「今夜は…手加減出来ないかもしれない」
そのままさらわれるように抱きかかえられ、夜の帳をくぐったあたしは、
瑠璃色の海へと横たえられた…。
ぼんやりと目をあげれば、北極星のような美しさを放つ恋人がいる…。
静かな夜更けに、官能の宴が今、秘やか幕開けた―――
蜜月６
そこはこの世の果ての夜空のようだった。
見たこともない星座が天を飾り,見たこともない夜の姿がそこにあった。
その不思議な様相は、あたしの体に燻っている快感と相俟って、軽い目眩
を引き起こさせた。
突然、白いオーロラが目の前を横切ったように見え目をこらすと、それは
ガウンの裾だった。
―――横たわるあたしの隣で、煩わしそうにガウンを脱ぎ捨てたシャルル
。
繊細な雰囲気からは想像もつかない、一分の隙もない均整のとれたそのた
くましさを、あたしは視界半分に眺める。
まだ…慣れない、シャルルの肌…
何度その胸に抱かれようが、目にするたびにテレちゃって…まだまじまじ
と見たこともないもんね。明かりをつけて…したことだって,ないし。
あたしは自分で考えたことに、一人勝手に赤面してしまった。
「何を考えているんだ…？ オレのこと以外だったら、許さないところだ
が…」
闇の中で銀に輝く髪をあたしにこぼしながら、息がかかるほどに額をよせ
、シャルルは低く囁いた。そしてあたしをからかうように淡く笑い、うな
じに大きな手を差し入れる。
「髪…伸びたね」
言いながらあたしの髪をすき、その毛先にまた口づける。
首筋に走る甘美なざわめきに思わずのけぞると、すかさずそこにあの熱い
唇がふってくる。
「！」
…執拗に繰り返されるその切ない動きに、ぼんやりした意識が、次第にひ
りひりとした焦燥感に変わっていった。
ふと気づけば、いつの間にか両肩のリボンは解かれ、その身は役目を終え
力なく投げ出されていた。
いつの間に…っ。
あたしはシャルルの余裕ぶりが悔しくて、ちょっぴりイジワルをしてやり
たくなった。
「シャ、ルル…このカッコ、あんなに誉めてくれたんだから、あたしこの
まま着てても…いいのよ？」
あたしの小さな反乱に、心外だと言わんばかりに冷たい光がグレーの瞳に
宿る。
シャルルは口元に酷薄な微笑みを浮かべて、
「ほう…？ それで困るのは君じゃないのか、マリナ」
剥き出しになったあたしの内腿に、すいと指で触れる。
瞬間、体がビクリと痙攣し、あたしはその反抗が無駄に終わったことを知
らされた。
納得いかないままにあたしは熱い頬を隠し、ムくれてそっぽを向く。
「あんたってイジワルだわ、シャルル」
「君が選んだんだろ…？ 今更苦情は受け付けないぜ。君こそこんな時ま
で、反抗を企てるとは…見上げた根性だな、マリナ。まったく、楽しませ
てくれる」
身動きがとれないように両手を絡めとられ、それをシャルルは片手で押さ
え、あっという間にあたしの頭の上の位置に固定した。
当然、無防備にさらされる体…。
いや〜、なんてカッコさせるのよぉっ。ああ、チビで非力な自分が恨めし
いっ。
そのあたしに覆いかぶさり、シャルルは微笑む。
高圧的に,その冴えた美貌にぞくりとするような魅惑をたたえて…。
「いい眺めだよ、マリナ…」
そうして…一番下のリボンを解いた。
―――聞こえるはずなんてないんだけど、あたしにはシルクが音をたてて
解けるのが、はっきり聞こえたの。
途端に、心臓の鼓動がさらに大きくなるのがわかった。
シャルルの手は、止まらない…。
ついに最後のリボンも解かれ、シャルルは…そっと繊細なレースを撫でつ
けながら、身ごろの合わせに手を忍ばせた―――
「これも素敵だったけど、オレにはこの下に隠された本当の君のほうが、
ずっと魅力的さ…」
…バラの空気が、肌に触れたのが感じられた。
あたしは恥ずかしさのあまり声も出せず、身をよじるしかなかった。
「綺麗だ…」
息を押し殺すようなシャルルの呻きが聞こえて、あたしはゆっくりと視線
を戻す…。
あたしを組み敷いて、まるで神聖なものでも崇めるように恍惚の表情を浮
かべ、そうして薄闇に身を置くシャルルは…この場にそぐわないほど清廉
で美しく見えた。
あたしは急に自分一人が汚れているように思えて、身をよじりながらなん
とかその視線から逃れようとした。
「は、ずかしいから…そんなに見ないでよ…！」
でも捕らえられている両手首は、びくともせず、その無駄な動きは逆にシ
ャルルの征服欲を煽ってしまったらしい。
シャルルはその真摯だった瞳に鋭い光をたたえ、途端に肉食獣のような雰
囲気を纏う…。
「だめだよ、マリナ…じっとしておいで。オレに君を全部見せて…」
優しげだけど有無を言わせないその囁きは、低くしたたかにあたしを縛る
。
こん…なの、や〜っ！
経過していく時間すらあたしに味方はしてくれず、じわじわといやな汗が
体を伝っていった。
でも…一番困ったのは、燻っていたはずの炎が、再びシャルルを求めて燃
え上がろうとしていることだった！
眼差しを各部に受けるたび、秘かな吐息が声に変わってしまいそうで、あ
たしは必死にそれに耐えた。
あ,あたしの…体なんか見ても、つまんないでしょーっ、もうやめてっ。
「ご謙遜を…なかなかどうして、素敵なボディラインなったじゃないか、
マリナちゃん。オレのおかげかな…？」
シャルルは満足げに笑って指を立て、それをあたしの体の中心に這わせて
いった。
首筋から胸元を通り、おへそまでくるとするりと横に滑り…そこにある綿
あめ色のリボンを片方、解いた…！
あたしはくすぐったさに似た快感にぞくりと震え、もう自分に限界が近い
ことがわかってしまった。
―――なぜかこの時、あたしはすごい慌ててしまって、自分でもわけのわ
からないことを口走ってしまったの。
多分、あまりに恥ずかしかったのと、あたしをいいように扱うシャルルに
、腹がたっていた…ってことも、…あったかも、知れないけど。
「あ、あんたの周りにいる女の子たちに比べたら、あたしなんか、つまよ
ーじみたいなもんでしょっ。フランス人の女の子って、ホントに可愛いも
のねっ」
「誰にものを言っているんだ。オレが容姿だけに惹かれるような、浅薄な
男だと？」
そっぽを向いたあたしの顔を自分に向けながら、シャルルはちょっと怒っ
たように問いかける。
…う。そんなことないのは百も承知だけど…言い出した手前、引っ込みが
つかないっ。
「わ、わかんないじゃない、あんただって男だもの。可愛くて、スタイル
抜群の子がいたら…」
するとシャルルはため息をついて、掴んでいた両手首を自由にし、意地悪
そうに笑ってあたしの顎をつまんで心もち、持ち上げた。
「君を選んだことが、何よりの証拠だろ？ おチビのマリナちゃん」
―――いつも言われ慣れてる軽口なのに、なんだかすごく頭にきて、あた
しはシーツを首もとまで引っ張り上げ、叫んでしまったのっ。
「こんな時までそんなこと言うことないじゃない！ もうあたし、あっち
の部屋に行くっ、なによ陰険シャルル！」
ベッドから出ようとしたら、途端にすごい力で腕をつかまれ、あたしはあ
っという間に引き戻されてしまった。
自己嫌悪とシャルルへのいらだち、それに反した謝罪の気持ちなんかがわ
っとわきあがり、…あたしの心は、もう目を背けたくなるほどぐちゃぐち
ゃだった。
ぎゅっと目をつぶって下を向いたあたしの両肩をつかんで、シャルルは戸
惑いや不信感を隠せない様子だった。
「一体どうしたんだ、マリナ。何が君をそうさせた」
あたしは…あたしは何でこんなにシャルルにイライラしたのか、さっき喋
っているうちにわかってしまった…。
でも自分じゃそれをどうすることも出来なくて、恥ずかしくて…勇気が出
せなくて、余裕のシャルルにすごく腹が立たって…。
バカだバカだとは思っていたけど…これほどとは。
救いようがないわ、もう…。シャルルも、呆れたかもしれない。
必死に首を振るあたしを、なんとか自分に向けさせながら、シャルルは問
い続ける。
「黙ってちゃわからないだろ。オレを見ろ、マリナ。どうしたんだ、話し
てくれよ」
薄闇で更に目を閉じた暗闇の中、あたしは考えるのを放棄し、しばらく感
覚を耳と鼻と皮膚に頼った。
次第に苛立ちを帯びてくるシャルルの声―――漂うバラの香気―――力強
いシャルルの熱い指先。
でも深く呼吸を繰り返すたび、だんだんと落ち着いてきて、…あたしはこ
れじゃいけないと思い直したの。
結婚初日で、こんなことで擦れ違ってどうするのよ。これじゃ昼間した誓
いが嘘になっちゃう。
あたしはシャルルが好きだわ。それだけは紛れもない真実だもの、自分に
…正直にならなくちゃ。
下を向いたままゆっくり目を開け、とりあえず思っていることからブツけ
てみようと、あたしは決意した。
「だって…あんたイジワルばかりするんだものっ」
あ、あら？ 何でこんなこと言っちゃうのよっ。
あせる気持ちとは裏腹に、あたしの口から飛び出る言葉は、ホントに可愛
げのないものばかりだったのっ。
「いつだって余裕たっぷりで、あたしのこといいように振り回して…遊ん
でいるんだわ、あたしでっ」
もう取り乱してるとしかいいようのないあたしに、シャルルは驚いて肩を
つかむ手を緩めた。
「マリナ…君」
「ベ、ベッドに来てからなんて、キスひとつしてくれないし、ろくに触れ
てもくれないじゃないっ」
「…マリナ」
「何よっ、シャルルのイジワル！ あんなに、あんなに…ああ、もうイヤ
っ」
とうとう耐えられなくなって、あたしはシャルルを振り切って背を向けた
。
顔があついよー、のぼせて倒れちゃいそう！
それに全然言いたいこと言ってないし、伝わるわけないじゃないっ、これ
じゃあ 。
あたしはぎゅうっとシーツをつかんで、体をこわばらせた。
ふと…シャルルが背後に近づく気配がして、あたしは一層小さくなり、も
う彼の裁きを待つことにした。
これ以上何を言ってもドロ沼だわ…ああっ、もう離婚かも。
あたしは、今ぐらいシャルルの頭が欲しいと思ったことはなかった。
ふわり…
突然―――あたしは温かいぬくもりに包まれた。
驚いて目を開けると、さらりと揺れる白金の髪が頬に触れ、それの放つ細
かな光があたしの視界に飛び込んできた。
背中に感じる―――温かくたくましいシャルルの胸。
頑ななあたしの心を溶かすように、お互いの失ったぬくもりを取り戻すよ
うに…。
そんなシャルルの優しい抱擁にあたしは驚き、狼狽した。
てっきり責められるものとばっかり…。
思わず、本当に思わず、涙が一粒ポロリとこぼれ落ちる。
もう二度と触れられないかと思ってしまったシャルルのぬくもりが、あん
まりにも…あったかかったから…。
「あれほど恋焦がれた君を手放すなんてバカなこと、オレがすると思うか
い？ マリナ…落ち着いて。もう一度オレの鼓動を感じてごらん…」
何度も聞いたその優しい囁きを、あたしは再び耳にして…自分の体にまわ
されたシャルルの腕を、ぎゅっと抱き締めた。
「ごめん、なさい、シャルル。あたし一人で訳わかんないこと…あんたを
勝手に、責めたりして…怒ってないの？」
「謝らなければならないのはオレの方じゃないのか？」
シャルルの言葉にあたしはビックリして、彼を振り返った。
このうえなく優しい笑顔が一瞬見えたと思ったら、あたしはもう…シャル
ルの胸の中だった。
息が出来ないほど強く抱きしめられて、シャルルは闇の中に魔法のような
言葉を紡ぎ出した。
「ごめんよ…マリナ。オレが君を…焦らすような真似をしたから…怒った
んだろう？」
！！
な、なん、わ、…何でわかったの！？
「可愛いな…意固地なマリナちゃん。今ほど君を可愛いと思ったことはな
いよ…嬉しいね」
もう、あたしは顔から火が出そうだった。
シャルルはくすくすと愉快そうに笑いながら、あたしの頭を愛おしそうに
撫でた。
あたしは…でも、でも言わずにはいられなかったのよっ。
「シャルル、あんたって…変よ。」
シャルルは小さく笑ってゆっくりと体を離すと、息がかかるほどに頬をよ
せ、あたしの心に問うようにグレーの瞳でじっと見つめた。
その眼差しは吸い込まれそうに深いもので、あたしは目を逸らすことが出
来なかった。
「オレが一番望んでいることって、わかる…？」
残念ながら、今のあたしにそれはわからなくて、ふるふると首を振るしか
なかった。
「…マリナに強く求められることさ、心も…体もね」
その言葉はあたしを驚かすのに、充分な力を持っていたの。
「あ、あたしはいつだってあんたを頼って必要としているわ,シャルル」
「―――君の表現はナチュラルで奔放すぎて…正直、オレには捕らえどこ
ろがないのさ 」
ほんの少しよぎる淋しさを隠して、シャルルは甘やかに微笑む。
「オレはね、マリナ。一度失った君をこの手に取り戻した時、もうこのま
ま世界が滅んでもいいとさえ思ったくらいだ。君はオレの傷を癒し、オレ
に新しい世界を与えてくれる。そして何より一人ではないという実感…こ
の、確かなぬくもりも―――」
言いながらあたしを横たえ…シャルルは深いくちづけをくれる…。
魂と魂が交わるような激しいくちづけは、あたしの不安を吹き飛ばし…新
たな愛を芽吹かせた。
頬に顎に首筋に…切ない余韻を残しながら、その熱い証は止まることなく
あたしの肌をたどっていった。
「ね…君に触れることを許されるこの瞬間に、どんなに心踊るかわかるか
い…？
君がオレに全てを預け、オレを求めて伸ばす腕に抱きしめられる
たび…どんなに幸福か、わかるかい…？」
静かに広がる甘い囁きと与えられる快感とに、あたしは目眩がしそうだっ
た。
シャルルのシルクのような舌と繊細な指先は、やがてあたしの胸へとおり
てきて…存分にそれを愉しんでいく。
荒々しく、時に繊細に…たんねんにあたしを味わい、そして一番敏感な部
分に歯を立て、自分のものだという証を見せつける。
「は…ぁ！」
突然襲う鋭い痛みに呼吸が止まりそうになる。
シャルルはそれでも構わずに、あたしの肌を求め続けた。
「本当ならば瞳に閉じ込めておきたいんだが…でもそれは叶わないことだ
…。そうすれば君は輝きを失い、いつしかオレを疎ましく思う時がきてし
まう。それは…オレの望むところではない。君はこれからもオレの一歩先
で、オレを翻弄しながらそうして歩いていくんだろう…まぁ、そんな君だ
からたまらなく魅力的なんだけどね。
…オレってマゾかな、マリナちゃん？」
密やかに笑いながら、それでもあたしをリラックスさせる言葉は忘れずに
…なめらかな舌はあたしの横腹を這い、下腹へと滑り落ちていく。
う、そつきっ！ あんたは紛れもないサドよ、シャルル！
もうとろけそうな思考で、あたしはかろうじて悪態をつく。
「あ…んただって、あたし一人にかかりきりに、なれないじゃない…。ア
ルディも、あんたの心の世界も…あたしにはどうしたって立ち入れない場
所があるわ。
ひとりであんたを待っている時のその孤独を、いろんな方
法で、追いやってはいるけど…ふとした時に襲ってくる寂しさは、あたし
を引き裂くのよ…！」
内腿からさざめく快感が全身に広がり、あたしはたまらずシーツをつかむ
。
「あたしの入れない空間が…憎くて、あんたのいない冷たさに、震えて…
。それを知らないから、そんなノンキなこと、言える、のよ。あたし…だ
って、あんたをいつも求めてるわ…っ。ただ、あんたみたいに頭良くない
から…うまく表現出来ない、だけで…。
あたしの気も知らないで、本当に憎らしいわ、いじわるシャルル…！」
あたしの片足を抱きかかえるように肩に担ぎあげ、ゆっくりと舌を這わせ
ていくシャルル…。
あたしの文句を、まるで心地よい音楽でも聞くかのような表情で…。
―――でもグレーに輝く瞳の光は,ギラギラと貪欲な欲望に飢えていた。
あたしはその光りに不安を覚え、わずかに腰を引くけど…それは許されな
かった。
次第に熱をますシャルルの切ない動きは、…やがてあたしの中心へと…た
どり着く。
かろうじて絡みついている、あたしの肌を覆う最後の布地に手をかけ…
「シャルル、やめ、―――！！」
突き抜ける鋭利な快感、ひりつく喉、弾ける闇―――全てが奔流となりあ
たしを一気にさらう。
静寂を破る淫靡な水音が、恥ずかしげもなく辺りに響きわたり、あたしは
あまりの恥ずかしさに死んでしまうかとさえ思った。
でも…そんな余裕は一切なくなる。
呼吸は切なく声となり、食いしばる歯の隙間から洩れていく。
あたしの理性はその水音に溶けて流れていってしまった…。
「もっと…言って、マリナ…君のままでいい、無理をしないで、君の言葉
で…オレを呼んで」
くぐもったシャルルの囁きはあたしの炎を煽り、きつく噛んでいた自分の
指はあえなく滑り落ちていく。
歯止めのなくなったあたしの想いは、堰をきったようにシャルルへと流れ
ていった―――
「ん…あ、は…っ！」
シャルル―――シャル、ル…！
気がおかしくなってしまいそうな、激しい快感に身を晒しながら、あたし
はシャルルの体を探した。
「お、願い。も…だめ、もういじわる、しないで…ぇ」
「いや、駄目だね」
あたしを苛む舌を指に替え、シャルルはゆっくり身を起こす。
激しい享楽とは裏腹の、冴えた美貌がまた現れて…あたしを圧倒する。
「オレを呼べ、マリナ」
濡れて輝く端正な唇が、そう強要する。
「自分にはオレが必要だと、このオレに教えてくれ…！！」
「あ、あ！ シャルル、好き…！ どこにもいかないで、ぇ…あたし、シ
ャルルが」
つかまえた…確かなシャルルの、熱…。
「シャルルが、ほしい…の！」
あたしの言葉に、シャルルは全身で歓喜を表した。
「いい子だ…マリナ」
艶やかな微笑みをあたしに残し、シャルルは…明けることのないこの夜空
の下で、きつくあたしを抱きしめた―――
蜜月７
体を…引き裂かれるような痛みが、あたしを見舞う。
でもそれは確かな愛の印で…それなら、あたしは甘んじて受けるわ。
その痛みをくれるのは最愛の人で、後で分かち合う大きな喜びが…待って
いるから。
何より…こんなに違うあたしたちが、一時でもひとつになれるから。
そして、全てが溶け合う快楽の海に…ふたりで溺れるの―――
「…ん…は、ぁ…あ、シャ…ルル」
快楽の波は、まだやってこない。
その行為に慣れていないあたしの体は、シャルルの想いを受けるのに精一
杯で…切ない悲鳴をあげるばかりだった。
うっすらと目を上げれば,すぐそこに鍛え上げられた広い胸板が見える。
シャルルはあたしを見ない。
繋がる肌から、聞こえる吐息から、あたしから得る快感から―――そこか
らあたしを感じていた。
閉じられた瞳、きつく寄せられた眉根や、微かに開かれた唇から洩れる荒
い息づかいが、あたしにたまらないほどの優越感をもたらす。
ああ、このシャルルの表情はあたしが与えたものなんだ…あたしがシャル
ルをここまで導いたんだ…。
体は決して楽じゃなかったけど、気持ちはとても満たされていた。
自然とシャルルがもっと欲しくなって…あたしは不思議なうねりを刻むそ
の腰に手を添える。
もっと…もっと…あたしを求めて…
もっと…もっと…知らない世界を、ちょうだい…
突き上げられるほどに痛みや切なさは増し、次第に全てが遠のいていった
。
素敵な夜空も、うっとりするようなバラの香りも、シャルルの切ない表情
までも―――
「あ、あ！！」
全てがスパークしようとした瞬間、突然大きく突き上げられ、あたしは悲
鳴をあげシャルルの胸に爪を立てる。
「は…マリナ、もう少し力を抜いて…オレはまだ君を愛したいんだ…」
その動きを止め銀の髪の間からやるせなく微笑んで、シャルルはあたしの
頬に優しく触れる。
「そん、な…無理だよ…ぉ」
汗とも涙ともつかない液体が頬を伝い、あたしはかろうじて首を振る。繋
がったままの肌はシャルルを求めてきしみ、きつく握り締めたシーツに益
々力がこもる。
シャルルは呼吸を整えて、あたしの頬にまとわりつく髪を優しく取り去り
…ゆっくりと抱きしめるように胸を合わせる。
そして苦痛に歪むあたしを慰めるように、大きな手でそ…っと額や頬に触
れていく。
そのグレーの瞳に…あたしへの愛をこめて。
「ごめんよ…辛いかい…？ でもこれがオレの精一杯の愛なんだ…マリナ
に受けてほしい。我侭だと―――責めるかい？」
シャルルの、わがまま…？
「バ、カね…シャルル。こんなに大事に愛されて…あんたを責める道理が
どこにあるっていうの、よ…。あたしは、平気よ。体は…今は苦しいけど
、気持ちはとっても素敵な気分なのよ…。もっと…あんたが欲しいくらい
、だ…わ」
「本当に…？ 嬉しいよ…ねぇ,マリナ。オレを見てごらん…オレの目、
オレの胸、オレの…愛を」
うっとりと視線を漂わせ…あたしはそこに美しく力強いシャルルの姿を見
た。
まるで風になびく花のように微笑むシャルルに…あたしはつられて笑顔を
こぼす。するとふうっと体が軽くなったような気がして、あたしは久々に
肺に酸素をいっぱい吸い込み、深い呼吸を繰り返した。
「そう…大きく呼吸をして、オレに触れて…」
のろのろと腕をあげ、あたしはシャルルを抱きしめた。
白金の髪の絹のような触感を愉しみ、天使のカーブを描く頬や、あたしを
解く魔法の言葉を紡ぎ出す端正な唇…雪花石膏のきめ細やかな肌、セクシ
ーな鎖骨、そこから伸びるスラリとした…でもたくましい腕、そしてあた
しを受け止める為の広い胸―――に触れていく。
「綺麗…あんたって、本当に…きれい」
「ふふ…君の方がずっと素敵だよ…。
―――愛しているよ、マリナ。オレは、君だけの為に存在するんだ…。
愛しているよ…オレのファムファタール、マリナ」
深く穏やかなくちづけは、あたしの全身を溶かすほど甘いものだった。
シャルルはゆっくりと大きく…深く動き始め、あたしの体はそのうねりに
徐々に応え出した…。
「オレの呼吸を感じてごらん…そう…いいよ、マリナ…」
あたしは体を素直にシャルルに任せ、その快感の波に乗った―――。
さっきとは全く違った光りの奔流が流れ出し、あたしはシャルルと共にそ
こへ漕ぎ出した…。
不思議に調和した息づかいが薄闇に溶けて、その夜を彩っていく。
あたしとシャルルは見つめあったままに愛し合い、互いがどれだけ愛しい
存在かを確かめあった…。
白いバラたちだけが、そんなあたしたちをひっそりと見守っていた。
「はぁ…気持ちいい…シャルル…溶けちゃいそう」
「オレもだよ…マリナ、なんて…快感だ…」
うっとりと微笑みながら,シャルルはあたしの首筋や胸へとキスする…。
「君が…乱れるたび、良い香りがするね。妖しく切ない…ほのかな香りが
…」
「ふふ…ジルに貰った、トワレ…つけたの」
「―――なるほど。…こんな企みなら、いつでも大歓迎さ…」
シャルルはあたしを抱きしめ、首元に頬をよせ深く呼吸する。
ふと…伸ばした指先があのベビードールに触れて、あたしはあることを思
い出した。
「そうだ…ん！、あ…薫がね、これを着た写真撮って…他のみんなに見せ
てやれって。シャルルの…は、ぁ…許可が出たら―――きゃあ！」
明らかに怒りにまかせたその突き上げに、快楽のベールが一気に躍動する
。
「許可…？ そんなものこのオレがすると思うのか…？ あの姿をオレ以
外の奴に見られてもいいと？ マリナ…」
あたしを逃がさないように強く肩を抱き押さえ、シャルルは荒々しくその
リズムを刻む。
一層激しくなる苛みはあたしを高みへと押し上げ、シャルルが抱いたその
ジェラシーすら、あたしには強烈な媚薬でしかなかった。
「あ…く…は、ぁそういう意味で、言ったんじゃ…んっ、あ…ない…。あ
あ！ シャルル…！」
充分にシャルルに応えながら、あたしはまだその愛を受けたくて…飛びそ
うになる意識と共に、シャルルの背に深く爪を立てた。
「君はオレのものだ…。もう決して、離しは…しない！」
「あ！ 大ス、キ！ シャルル―――！！」
稲妻のような快感が突き抜け、全てが麻痺したように感じた途端―――あ
たしの体は、瑠璃色の海に沈んでいった。
「…愛してる…」
けだるげだけど、満足しきったシャルルの囁きと…優しいキスが、最後の
記憶だった。
半身に寄り添う愛しいシャルルに包まれて―――あたしはこの上ない幸福
な眠りに…落ちていったの。
激しい喉の渇きにふぅっと意識が浮かびあがって、あたしは重いまぶたを
持ち上げた。
全てがぼんやりとにじんで見え、自分がメガネをかけていないことに気づ
いて、手探りでその辺りを探る。
するとカメラのピントが合うようにふいに周りがはっきりして驚いている
と、仄かな明かりに反射する白金の光がよぎった。
うっとりと目を上げれば、素肌にガウンを羽織ったシャルルがいた。
羽枕にゆったりと寄りかかり,片腕であたしを抱きかかえるようにして、
静かにあたしを見下ろしていた…。
「…ありがと、メガネ。シャルル、喉乾いた…」
そこまで言うとふいに唇をふさがれ、ひんやりした冷たいものが流れ込ん
で乾いた喉を潤していった。
あたしはシャルルの唇から残らずその液体を飲みほして、ほっと息をつく
。
は、あ〜…生き返ったわー。なんて美味しい白ワインなんだろう、もっと
欲しいな。
そう思って唇をねだると、目の前にワイングラスがニュッと出てきた。
ちぇ、ケチ。
あたしはしぶしぶ、うつぶせになってそれを受け取った。
シャルルは甘やかに微笑んで自分のグラスを傾け、
「…乾杯」
あたしのグラスにそっと重ねる。
チィン…
軽ろやかな音が静かな空間に響き渡り、あたしはこの美貌の人と共有した
全てを祝った。
それはくすぐったいような、気恥ずかしいような…それでいてとても誇ら
しいような、不思議な気持ちだった。
「外…暗いわね。もしかしてあたし、丸一日寝ちゃったのかしら？」
あたしのとぼけた問いに、シャルルは瞳をふせ美しく揺れる液体に口をつ
ける。
「ふふ、まさか。あれから３０分と経ってないよ。君は眠ったというより
…気絶していた、といったほうが正解かもしれないぜ」
極上の白ワインも手伝って、あたしの顔は一気に火照った。
う、嘘っ。すごい熟睡したって感覚があるんだけど…。
「そんなに良かったの…？」
寝そべるあたしに顔を近付け、物うげなブルーグレーの瞳をうっとりと潤
ませ…シャルルは密やかに微笑んだ。
き、きゃ〜っ、そ、そんなこと言えない〜！！
あたしは羽枕に顔を埋めるようにして、そんなシャルルの恥ずかしい質問
から逃げた。
コトンとグラスを置く音がしたかと思ったら、あっという間に仰向けにひ
っくり返されて、あたしはシャルルの胸の下敷きにされてしまっていた。
「ねぇ、教えて…？ マリナちゃん」
イジワルな瞳の光の中にも、真剣な想いが混じっているのがわかったけど
…やっぱりどうにも恥ずかしくって、たまらずあたしは聞き返してしまっ
たの。
「あんたこそ、どっ、どうだったのっ？」
「わかるだろ…？ だからこうして最高級のシャルドネで祝杯をあげてい
たんじゃないか。君の寝顔を肴にね」
パチンとウインクをして、シャルルはふわりと口づける。
その時、シャルルがさっき言っていた言葉がふいにあたしを襲った。
”君の表現はナチュラルで奔放すぎて、正直オレには捕らえどころがない
んだ”
―――そんなつもりは全然なかったんだけど、あたしの愛情のしめし方は
シャルルには物足りないみたい…。
そ、そりゃ”恥の国”から出てきて、いきなり恋愛大国に連れてこられち
ゃってあたしだって相当戸惑っているのよーっ。
シャルルのことは大好きだけど…未熟なあたしだから、ああいうことだっ
て自分からアプローチしたことないし…だからついつい口べたになっちゃ
うし、変に意固地なとこあるし、上手く甘えられないっていうか、まだそ
ういうの慣れないっていうか、パリの街中は恋人だらけで恥ずかしいって
いうか…じゃないわよっ！
何考えてんのあたしはっ！ もー下手な考え休むに似たりってよく出来た
言葉よね、あたしはまず口を開いた方がいいかもしれないっ。
でも、そう思ってもあたしの口は食べるの専用だってことを思い出して、
ますますオチこんでしまったんだけど…。
あたしは内心情けない思いでいっぱいだったけど、目の前で幸せそうに微
笑んでいるシャルルを見たら…先ほどの甘い嵐が体の芯に蘇り、そしてな
によりこれがシャルルと分かちあった確かな愛だと気づいたの。
そうね…あせる必要なんてないわ。
無理をしない本当のあたしがシャルルを求めてこそ…そこにシャルルの充
足感が生まれるのよ。
飾る必要もない、心のままに,あたしはシャルルの名を呼べばいいんだ。
今しばらくは、上手く伝えられないかもしれないけど…
あたしは…生涯を共にするこの人を思いやり、いたわり、そしてなにより
互いに正直でいられる伴侶になりたいと思ってる。
だから、少しづつでもはぐらかさないて…ちゃんと言わなくちゃ。
これがあたしの結婚生活はじめの一歩よね！
本当に心の底から幸せな笑みがわいてきて、あたしはシャルルに唇をよせ
た。
上唇を優しくなめ、下唇を甘く噛み、あたしを愛してくれたその唇に割っ
てはいる。
シャルルは驚きながらも、またあたしをリードしてくれようとした。
でもあたしはやんわりとそれを押しとどめ…ゆっくり身を起こしながら、
今度はシャルルを反対に組み敷いた。
あたしの稚拙なキスにもシャルルは優しく答えてくれて、あたしはそうし
てしばらく…シャルルにそうっと、感謝と愛とを伝えたの。
…唇を離してからも、あたしはシャルルの頭を抱きしめ、瑠璃色の宇宙に
広がる天の川のような美しい白金の髪を撫でた。
いつもと立場が違うけど…なんて心休まる安心感だろうと…あたしは感じ
た。
シャルルはまるで母親に抱かれる子供のように…瞳を閉じ微笑みすら浮か
べて、穏やかな呼吸を繰り返していた。
「シャルル、あのね」
あたしはいつものように大きく息を吸う。
「あんたって最高よ。心も体も…あたしあんまり気持ち、よくて、も…も
うこ、声が抑えられないくらいだったものっ。体が液体になったみたいで
…でも、体の芯だけはすごく、痺れたみたいに熱くて。あんたの切ない表
情にすら、すごく…か、か…か」
「か…何？」
もう途中からくすくす笑いだしたシャルルを、ぺしんと軽くたたいてあた
しは深呼吸した。
「すごく…か、感じちゃったも、の」
口元に耳を近付け、消え入りそうなあたしの言葉を嬉しそうに聞くシャル
ル。
「あんたと愛し合えて…あたし、最高に幸せだったわ。とっても、よかっ
た。ありがとう…ジュテーム、モンシェリ…シャルル」
―――その時のシャルルの顔ったら…。
「…お願い、マリナ。もう一度言って」
「えっ、へ、変だった？ 発音」
「そんなことない、とても上手だよ…今、オレは、不覚にも真っ白になっ
ちまった…まいった。君の甘い毒で、もう再起不能だ…。だから頼む、も
う一度言ってくれ。そうしたら素敵なご褒美をあげるから」
「な、何バカなこと言ってんのよっ。い、いやーよーっ、もう言えないっ
！ …ご褒美ってなに？」
「君が喜ぶこと請合いなものさ、さあ。オレの頼み、聞いてくれるよね…
？」
「えー…、んもう。…じ、じゅ、ってーむむ…もん、もんし…しし…。シ
ャルル！ あんたまたあたしで遊んだわね！」
あたしが赤い顔で必死に言ってるのに、この男は〜。
ひそかに肩を震わせて笑ってるっ。
んもーもーもー、あほシャルル！
背中にあった枕を力まかせにシャルルにぶっつけて、あたしたちはしばら
くベッドの上でじゃれあった。
声をたてて笑い合い、地位も名誉も関係なく、そうして普通の恋人同士の
ように…。
その初めて出会う無邪気なシャルルに…あたしは感動した。
これからの永い生涯、どれだけのシャルルに出会えるだろう。
それだけで、あたしの胸はまた、シャルルにときめきを覚える…。
「はぁー」
ひとしきりはしゃいで、あたしはシャルルの胸に寄りかかる。
「寒くない…？」
あたしの裸の肩を抱いて、ひっそりと聞くシャルル。その確かな鼓動を感
じたくて、あたしはたくましい胸板に頬をすりよせる。
「ちっとも。あんたとふざけてたから、反対に暑いくらいよ」
「ふふ、そうだね。…ねぇ、マリナ。さっきの発言は少なからず君を傷つ
けてしまったね…ごめんよ。―――気持ちを素直に伝えてくれてありがと
う、とても嬉しかった…感動したよ」
「そんなっ…当たり前のことをしただけよっ。思慮が足りなかったあたし
こそ、あんたに謝らなくちゃならないわ。不安にさせて,ごめんね？」
振り仰いだシャルルは…一瞬、泣いているのかと思った。
静謐なブルーグレーの瞳がいっぱいの恍惚の光をはらんで、あたしに語り
かけていた。
君とこうして語り合い、触れ合い、いたわり合い…存分に心を重ね合わせ
…なんという満ち足りた気分だろう。
君と出会えた今だからこそ、生を享けたこの世をも愛せよう。
愛してる、愛してる、―――愛してる君を。
オレの片翼、君を得てオレは新たな空を飛ぼう。
ずっと、二人で…果てしなく広がる世界を。
「そうね…シャルル。ずっと一緒に、仲良く手をつないでいきましょう。
あんたはあたしが絶対幸せにしてあげるからね、覚悟しといて」
あたしはその温かく大きな手を、しっかりと握り締めた。
シャルルは微笑む―――白いバラたちを従えて、清廉に…どこまでも広が
る愛を携えて。
「君は魔法使いかい、マリナちゃん。オレの欲しい言葉をいつもくれる…
お手柔らかによろしく頼むよ、オレの奥さん」
そうして、あたしたちは優しく口付ける。
「今のオレは君に何でもしてあげたい気分だ。…給仕だってね。はい、ご
褒美」
あたしは口に放り込まれた物を,パクンと閉じ込めその感触を確かめた。
ああっ、このつぶつぶ感に甘酸っぱいいい香りは！
…フランボワーズだわーっ、なんて美味しいんでしょっ。
あたしは感激して、そのおいしさを噛みしめた。
思い起こせば―――ついさっきか。
ちゃんと食べたはずなのに、どこかへいってしまった豪華ディナー！
ああ悔しいったら、もうこうなったら心も体も満たされた今っ、あとはお
腹を満たすだけよね！！
どこにあるのっ！？ あたしの食べ物はっ。
キョロキョロするあたしの頭をポンとたたいて、シャルルはレースをくぐ
り、ベッドを下りた。
シャルルがすっと視界からどくと、いつの間にか銀色のワゴンがベッドに
横付けされていたの。
その上には…きゃーん！
フランスパンにクロワッサン,ピンクの生ハムに宝石みたいなキャビア、
いい匂いのモッツァレラとカマンベールのチーズの盛り合わせ！ とどめ
はきらきら輝くマスカットとフランボワーズにラフランス！
ああ〜もうだめー。
あたしがフラフラとワゴンに近づくと、
「慌てるなよ、マリナちゃん。今用意してやるから。ちょっと”おあずけ
”だぜ 」
そのままベッドに押し戻されて、あたしは枕に寄りかからされた。
ううう〜早く〜。
はやくも待ちきれずうずうずしているあたしの口に、もう一つフランボワ
ーズを放りこんで、シャルルは微笑んだ。
あたしの裸の首にナフキンを結び、シーツにくるまった膝の上にトレイを
置く。
すると見る間にきらびやかなコンビネーションサンドが並んでいったの〜
！
きゃーきゃー、なんておいしそうなのっ。さっきの芸術的なディナーを作
ってくれたコックさんには申し訳ないけど、シャルルサンドの方があたし
にはとっても魅力的よぉ〜。
ま、まだかしら？
ちらりとシャルルを盗み見ると、満足そうにワインなんか飲んですまして
あたしを見ているの。
「シャルルぅ、もう食べてもいい？」
「ふふ、いい子で”待て”出来たね。今日のオレは最高に気分がいい。君
がいくつサンドを食べても文句なんか言わないよ、遠慮なく召し上がれ。
まぁ、君は遠慮など始めからしたことないか」
ええっ、しないわよ！ わーいっ、いただきまーす！
あたしはシャルルのあまりの機嫌の良さを不気味に思いながらも、気が変
わらないうちに思う存分食べてしまおうと、大きな口でその素敵なパンた
ちにかぶりついた。
「んー最っ高においしいわっ、ありがとうシャルル！ あんたと結婚出来
て、あたし幸せっ」
「どういたしまして。…ドレスを送った時より嬉しそうだね」
「ふぁ？ なんふぁいっふぁ？」
「いいや、別に。ほら、口に物を入れて喋るんじゃないよ」
言いながらもシャルルは優しげにあたしを見つめ、ラフランスを手に取る
。
「食べるかい？…と、愚問だね」
すると！ なんと自分で銀のナイフを操り、シャルルはするするとあの複
雑なデコボコの果物の皮をむいていったのっ。
ラフランスって、形がいびつな上に汁っ気たっぷりだから、皮むくのすご
い難しいのよねっ。薫んちでくすねて食べようとした時、手やら口やらが
ベロベロになっちゃって、すぐにバレちゃったものね。
それにしても…こんなことやってるシャルルなんて初めて見たわー。でも
、すごい上手！
あたしが驚いてそう言うと、シャルルはナイフをひらめかせしたり顔でこ
う言った。
「オレの職業を忘れちまったのかい、マリナちゃん？」
は？ 職業って…どれ？ んーナイフとくれば…ああ！ そういえばシャ
ルルは世界に名立たる天才外科医！ 自分で自分の手術もしちゃう
ブラックジャックも真っ青のお医者さんだったっ。
「こんなの皮膚を剥離するのに比べたら、ずっと簡単なことさ」
そう言って種もきれいに取り除いて、すととんとお皿に切り並べ、あたし
の膝の上に置く。
げ、ひ、皮膚って…
あたしはパンをくわえたまま、その甘い芳香を放つ果物をじとーっと見下
ろした。
「人が食事中だってのになんてこと言うのよ、ゲテモノシャルル」
シャルルはつんと横を向いて、ワインをあおる。
「ふん、君だって空腹ならば、たとえ隣で解剖していようが平気で焼肉く
らい食べるだろうに」
げっ、いっくらあたしでもそんなこと…
そういえばいつだかシャルルの手伝いで、人の腕のぶつ切りに触ったこと
あったわよね。あの時、へぇとり肉みたいって感じたものね…ううーん案
外、平気かしら…。
「おいおい、なんて目をしているんだ、マリナちゃん。オレはまだ君に喰
われるわけにはいかないぜ」
「たっ、食べないわよ！ あんたは非常食ですものっ」
ほんの冗談のつもりでいったのにっ、シャルルったらいきなりムッとして
、あたしの耳にふうっと息を吹きかけたのよっ！
ひゃあぁ〜、耳はだめーっ。
時すでに遅しで、あたしはあまりのくすぐったさに体をよじった！
途端に、片手に持っていたワインを離してしまって…なんと頭からざんぶ
りとかぶってしまったのぉ。
ああっ、もったいないっ。
そう思って髪からしたたる高級ワインをぺろぺろ舐めていたら、たまりか
ねたようにシャルルが言ったの。
「今日ばかりはどんなに食べても文句は言わないと言ったが、アリがたか
りそうな女と眠る気はないぞ！ マリナ、そんなことやっていないで、バ
スへ行け」
「えー、だってもう疲れたし、お腹一杯でこのまま寝たいわよー。平気よ
タオルで拭けば」
もとはといえば、あんたのせいじゃない！ あほシャルル。
ぶちぶちあたしが言ってると、シャルルはずいとのりだして親指で強く自
分の胸を指した。
「オレ”が”平気じゃない！ 行かないのであれば、残りの２日間ずっと
君の耳に息を吹きかけ続けてやるぞ。さあ、あの正面のドアだっ」
薄闇でぎらりと輝きを放つブルーグレーの瞳は妙に凄みがきいてて、あた
しはぞくりとした。
それでなくたって、２日間も耳攻めはごめんよー！
あたしはネイビーブルーのシーツを改めて体に巻きつけて、しぶしぶベッ
ドを下りた。
あ、あららららっ！
なんだか急に平衡感覚を失ったようによろけて、あたしは毛虫みたいに絨
毯の上に転がってしまったのっ。
何よこれっ、すごい体が重いっ。
まるで水からあがった時みたいに、ずぅーんと重力がかかってしまってい
る。
特に下半身に力が全然入らな…ああーっ。
こ、これって…し、し過ぎってやつかしら。
あーもーっ、動け、ないーっ。
あたしがへたり込んでいる様をベッドの上から愉快そうに見下ろして、
シャルルは傲然と言い放ったのっ。
「言ったろ、手加減しないぞ…って。手をお貸ししましょうか、マダム？
それともバスもご一緒に？」
言葉こそ丁寧だけど、明らかにあたしをからかってるのがミエミエ！
ちくしょー、覚えてなさいよっ、シャルル！ いつか…きっといつか絶対
あんたをぎゃふんと言わせてやるわっ！
暗い決意を胸に、あたしは赤い顔で「結構よっ」と叫び、呼吸を整えてえ
いやっと立ち上がった。
あたしは絨毯の長い毛足に足をとられながら,カクカクと進んで行く。
「いくら疲れているからって湯船で寝るんじゃないよ。オレはもう満腹だ。
ゆでマリナなんて喰えないぜ」
足元に集中してるから言い返せやしないっ。
それをいいことにあたしをおちょくり続けるシャルルは、あたしの旦那さ
まになったんだと改めて気づいて、あたしは奥歯を噛んだ。
ああっ、このままあたしはからかわれ続ける運命なのかしらっ！？
心の中で叫んでも、それはあとの祭りだったの…。
あたしは浴室へと続くドアに手をかけ…重い体を引きずって、のろのろと
そこへ入って行った。
新たな世界が待ち受けているとも―――知らずに。
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