『蜜月〜
La lune de miel（ラリュンヌドゥミエル）』
蜜月８
「う、わー…すごい」
まるでハリウッド映画に出てくる高級ホテルの、最上階ペントハウスにで
も迷い込んだかと思うロケーション。
今までいたゴシックロマンな部屋とは大違いねぇ。
そこはお風呂場というにはあまりある、素敵すぎる場所だった。
あたしのボロ部屋が３つは入ろうかという広い空間に、裸足にひんやり気
持ち良いきらめく大理石がだーっと広がり、所々によく手入れされた観葉
植物がきらきらと輝いていた。緑の呼吸が感じられそうなほどのそれらは
まさに天然の空気清浄器だった。
入り口近くは同じ大理石の洗面スペースになっていて、完璧を誇るアメ
ニティーグッズの品揃えっ。思わず持って帰りたくなるような、石鹸、
タオル、歯ブラシ、高級化粧水！
はっ、いつものクセでついわしづかみに…。どこへもって帰ろうっての、
あたしはっ。
慌ててもとに戻していると、何やらいい香りがっ。
それはそこにしつらえてあるステンレスのモダンなチェストからで、いろ
んな形をした綺麗なビン類がずらーっと並んでいたの。ラベルはもちろん
フランス語でちんぷんかんぷんだったけど、でも食べられなさそうだった
んであたしは手を出さなかった。
危ない薬とか混じってたら、ヤダもんねっ。どうもニトロ以来ビンに入っ
た液体って怖いわっ。
シンクの正面にはモスグリーンの文様が縁に施された大きな鏡があって、
それがなんともオシャレ！
ただそこに映っているのは、あんぐりと口を開けたシーツすまきのあたし
なんだけどね…とほほ。
気を取り直して正面奥に目を向ければ、なんと…そこには巨大なバスタブ
がどーんと構えていた！
床より一段高くなったそれからは、心地良い暖気が流れてきて、あたしは
ふらふらと引き寄せられる。
ひょいと覗き込むと静かなモーター音がして、適温に保たれたお湯にはた
くさんの泡が送り込まれていたのっ。
ひゃ〜、ジャグジーバスだぁ！ 気持ちよさそーっ。
それにこのバスタブっ、なんて艶やかな真紅なんでしょっ。浮かんでくる
泡がまるで宝石のルビーみたいに見えちゃうもの。
それにしてもデカいわねー。詰め込めば１０人くらい入るんじゃない？
感心しながらふと横に目をやれば、そこには衝立のついたシャワーブース
でそこの壁だけが、わあ、ぴかぴかの黒曜石！
洗面所についていた同じ金色のシャワー口が、植物の緑と相まってなんと
も素敵な雰囲気を醸し出していたのぉ。
どこに目をやっても完璧に調和の取れたそれらは、シャルルを思い起こさ
ずにいられない。
ううーん、いつも行く風呂屋とは大違いね。こんなに素敵なお風呂だった
ら、あたしの風呂嫌いも直るかしら。
なんてバカなことを考えながら、ポイとシーツをシンクに放る。
必然的にそこにある鏡にあたしが映るんだけど…。
あたしは思わず悲鳴を上げそうになったっ。
ぎゃっ！？ なにこれっ！？？
体のあちこちに点々と浮かび上がる斑点…赤やピンクや、中には紫のもの
までぇ〜。
どどど、どうしようっ、あたし病気！？
あせってシャルルに教えに行こうとドアノブに手をかけた途端に、はたと
なった。
…ん？ シャルル…
ああー！ こ、これってキ、キスマーク！？
よく考えるとシャルルの唇のたどった跡だわっ。
唇の、たどった…腕や、首筋…胸や内腿まで…。
あたしはひとりかあっと赤くなって、自分を抱きしめぎゅっと目を閉じた。
すると、まざまざと蘇ってくる…あたしの中を暴れまわったシャルルの感覚。
―――思わずこぼれそうになる声を…ごくんと無理やり飲み込んで、あた
しはもつれる足で必死にシャワーに駆け寄った。
熱いお湯を浴びてもどうなるものでもなく、あたしの体はシャルルを求め
て…甘く疼いていた。
ワインはすっかり流れ落ち、カピカピしていた髪は、濡れて素直にあたし
の体に張り付く。
そうしてしばらく下を向いて、あたしはその甘い波が去るのをじっと待ち
いつものように深呼吸をした。
途端に流れるお湯まで吸い込んじゃって、あたしは盛大にむせながら、な
んとかシャルルの余韻を頭のすみっこに追いやることに成功したのだった。
さっ、気を取り直して、あのステキなお風呂につかろーっと。
ぷるぷると顔の水気を振るって大理石のステップを踏み、そろりとルビー
色のなめらかなお湯に片足を入れる。
…きゃ〜、気持ちイイっ！ 最高だわー。これで飲むものでもあれば、も
っといいんだけどっ。
顎までたっぷりとつかって、あたしはそのお湯を堪能した。
適度なお湯は疲れた体をじんわりとほぐし、湧き出る泡はあたしを優しく
マッサージしてくれる。
おもいっきり体を伸ばし、うっとりと目を閉じる…。
まるで宙に浮いたようなその感覚は、夢の中をたゆたっている時ととても
よく似ていたの。
「…リナ、マリナ！ ステーキが逃げるぞ、マリナっ」
えっ、どこっ！ あたしのステーキっ。
はっと目を開けきょろきょろと周りを見渡すと、あたしの腕を掴んだシャ
ルルが、怒ったように目の前にいた。
「何をやっているんだ！ 遅いと思って来てみれば、この有様だ。まった
く言葉もないね」
「ちょっとシャルル、どこなのよ、ステーキ」
あたしがきょろきょろしてると、シャルルはいらだたしげにお湯をひとす
くいあたしの顔にかけたのっ。
「ぶっ、なにすんのよっ」
「なにすんのじゃない！ いつまで寝ぼけているんだ！
危うく溺れかけ
るところだったぞ。湯船で眠るなとあれほど言っただろ！ …嫌がると思
ったから、一人で行かせたのに」
シャルルは白金の髪を振り乱し、あたしの状態を確かめるように両腕を強
く掴んだ。明かりの下で久しぶりに見たその瞳は、不安と心配が入り乱れ
て、悲しげに歪んでいる。
あたしはやっと状況を理解してさぁっと血の気がひいた。
ひえー、あたし寝ちゃってたんだ、あぶないっ。…でも、一瞬だと思うん
だけど…シャルルの様子からすると、違うみたいね。うーん、泳げないあ
たしが水ん中で気を抜くとは…よっぽど疲れてるのかしら。
あたしは心配してくれたシャルルに、とりあえず素直に謝った。
「ごめんなさい。あんまりこのお風呂が気持ちよかったもんだから…助け
てくれてありがと、シャルル」
その言葉を聞いてもまだ不安な表情を崩さず、シャルルは乱れたあたしの
髪を撫でつけて…ふっと瞳をふせた。
「やっとオレだけのものなったのに…ひとり置いていくような真似はしな
いでくれ…」
あたしの両手をしっかりと包み込み、自分の額に頂いてシャルルは絞り出
すように苦しい吐息をつく。
その悲痛なシャルルの姿は、どんな形であれあたしを失った時の悲しみと
絶望の深さを思わせた。
あたしは驚いて強張ったシャルルの手を取り、なんとか安心させようとそ
っと自分の頬に押し当てた。
ごめんなさい…心配かけて、ごめんなさい…
その温かさが伝わったのか、シャルルはふっとブルーグレーの瞳を静かに
輝かせてじっとあたしを見つめ、ゆっくりと身を屈めた。
そうして濡れるのを気にせずに、壊れ物でも触れるかのように優しくあた
しの頭を抱きかかえる。
ステキな象牙色のガウンが、濡れるのを気にもせ…ん？
濡れる？
あ、ああたしっ、お風呂に入ってるんだったー！
当然ここには照明もこうこうとついてるし…ひやー、は,恥ずかしいっ。
あたしは慌ててお湯の中で自分を抱きしめ、じりじりとシャルルのいる縁
から後退した。
「シ、シャルル、もう平気だからっ、で、出てってっ。あたしお、お風呂
入ってるのよっ、出てっ早く！」
シャルルはそんなあたしを黙って見ていたかと思うと、その長身を翻し静
かにドア口へと歩いて行った。
ほっ、よかっ…んん？
と思ったらドアの手前でくるりと横を向いて、洗面所のチェストの扉を開
け、なにやらごそごそと物色しだしたっ。
「ちょっとシャルルっ、そんなことやってないで、早く出て…」
「いやだね」
…は？ なんですって？
「聞こえなかったのか？ 湯につかって脳みそまで溶けちまったか、薄弱
なマリナちゃん。これ以上の薄ぼんやりはごめんだぜ。もう一度正確に言
おうか、”バスルームから出るのは断る、いやだ”と言ったんだ、オレは
」
強烈な皮肉を吐きながら、シャルルはいくつかのビン類を持って悠然とあ
たしの元に戻って来たのっ！
あ、あたしはあまりのショックに文句も言えず口をぱくぱくして、目の前
に現れたシャルルの美貌の姿を愕然と見つめた。
柔らかな照明に照らされ静かにたたずむ姿は、けだるげな雰囲気さえもた
め息が出るほど美しく、長身にもかかわらず不思議とひどくはかなげな体
つきは、艶めかしい魅力に満ちていた。
シャルルは優雅にバスタブに腰掛けると、持っていたビンをひとつづつ吟
味しながら、その縁に並べていく。
そこだけ切り取って壁に掛けたくなる衝動をあたしは抑えて、お湯の中か
らシャルルの美しさにうっとりと見惚れた。自分の置かれた状況も、すっ
かり忘れて…。
この…人が、あたしの旦那さまになったなんて、はぁ〜なんだか信じられ
ない。
あたしの注視に気づいて、シャルルはブルーグレーの瞳を静かに瞬かせ、
口元に綺麗な微笑みを浮かべ…とても残酷なことを言ってのけたのっ！
「君をひとりここへ残したりしないよ…これは罰だ、マリナちゃん。入浴
シーンでも見せてもらおうか」
―――ひえ〜！！？
い、いやいやいやよー！
あたしのロマンティックな雰囲気はあっという間に彼方へすっとんでいき
お風呂であったまったはずの体は冷水をぶっかけられたように硬直したっ。
あ、あた、あたしはなんとか意識を総動員して、首をぶんぶん振って断固
反対の意志を示した！
「シ、シャルル！ 日本にはねっ、”親しき中にも礼儀あり”って立派な
言葉があるのよっ。い、いくら夫婦になったからってねぇ…」
「ほう、随分生意気なことをいうじゃないか…」
シャルルはスポイト片手にいくつかの液体を吸い上げ、調合ビンへと落と
しながら低く呟く。
湯気にあおられて、鼻腔をくすぐる淡い香りが辺りに散らばった。
繊細な指でそのビンを持ち上げ、光に透かしながら軽く振る―――あたし
には目もくれずに。
「それでオレは君を危険に晒すとわかっていながら、手をこまねいて待っ
ているというわけか…？ ごめんだね…」
こめかみがぎりりと、動く…。
突然眩しい光でも浴びたかのように、シャルルは瞳をきつく絞った。
いつにない厳しく低いその声音に、あたしは驚いてすくみあがる。
お、怒ってる…本気で。
そういえばあたしって、シャルルに真剣に怒られたの初めてかも…ちょっ
と怖い、わね。
普段から文句や皮肉は言いこそすれ、本当に大事にあたしを扱ってくれる
シャルル。でも時々その表現は、あたしに遠慮してるようにさえ感じてし
まう。
これは…あたしにより踏み込んでくれた、シャルルの愛情なんだわ。
あたしはなかなか複雑な気持ちを抱いて、そうっとシャルルに聞いた。
「シャルル、怒ってる？」
あたしの小さな声にぴくりと肩を震わせ、緊張の糸を切るように…短く吐
息をついたシャルル。
そうして自分の激情を隠すようにうつむく―――白金の髪が、サラサラと
音もなくその厳しい表情を覆い隠していった。
あたしはシャルルの気持ちの揺れについていけず、呆然とその様を見てい
るしかなかった。
すると静かなモーター音に混じって、小さく呟く声が微かにあたしの耳に
届く。
「…自分の判断の甘さにね」
あたしは自分の耳を疑った。
シャルルは…あたしではなく、自分を責めていたんだ！
「君をそこまで疲弊させたのは間違いなくオレなんだ。責任はオレにある
」
そう言ってゆっくりその繊細な頬をあげ、今まであった険しい感情をすっ
かり拭いさって、シャルルは指先で愛しそうにあたしの頬に触れる。
目の前にある…自分の愛、あたしの存在を噛みしめるように…。
あたしは驚きを隠せなかった。
なんて繊細で、なんて…臆病な愛なんだろう。
決して大手を振って宣言するわけでなく、ひっそりと囁くように愛を奏で
るシャルル。
もうあたしはあんたのものになったのに…。気をつけないお前が悪いって
言ってくれてもいいのに…。
自分の軽はずみな行動で、こんなにもシャルルを傷つけてしまったことに
あたしの胸は痛んだ。
「シャルル…シャルル、何言ってるの、そんなことない。そんなことで自
分を責めたりしないで。悪いのはあたしよ！ あたしのドジのせいであん
たをこんなに苦しめるなんて、思ってもみなかった…本当にごめんなさい
。あたしあんな偉そうなこと言ってて、結婚早々これじゃ…あんたの奥さ
ん失格だわ。これからはもっと気をつけるからっ。あたしのせいであんた
が心労なんかで倒れちゃったら、やだもんね」
バスタブに腰掛けるシャルルに寄り、あたしは大きな手に自分の手を重ねた。
シャルルはそんなあたしの手を反対に包み込んで、意地悪な光を瞳に宿し
淡く微笑んであたしを見透かすように覗きこんだ。
「ふふ、随分殊勝なことを言うじゃないか。そう願いたいのは山々だが、
でも君に慎重さを要求するのは諦めているよ。無理にそんなことをしなく
てもいい。ただ…」
「ただ？」
途端にシャルルはひどく…ひどく遠い目をして、手元に湧き上がるルビー
色の泡に視線を落とした。
あたしははっとなって、温かくて大きい大好きなその手を握り返す。
なんだか、急にシャルルが消えてしまいそうな気がして！
そんな不安を煽るように、静かなシャルルの言葉が流れ出した。
「マリナ…結婚する前にも言ったが、オレはアルディを双肩に担う身だ。
君を自由に愛する難しさは身に染みてわかっている。…君はそれでもオレ
の我侭を許して、オレを選んでくれた…。
オレの全ては君にある。それは偽りのないオレの真実だ。
でもマリナ、これから先の生活はそう甘いものではないだろう。何日も会
えない日が続いたり、そればかりか意図的な邪魔が入る可能性すらある。
そして…アルディの重圧が、少なからず君にものしかかる」
きつく寄せられた眉根、強張った頬…あたしの頼りない手ですら、今のシ
ャルルにはただひとつの拠り所だった。
暖かいはずのこの空間が、シャルルの周りだけ緊張を孕んで凍てついてい
る…。
端正な唇からは、迸るシャルルの思いが堰をきったように溢れだす。
「君の言ったことは的を得ている…そうさ、マリナ、オレは君ひとりにか
かりきりにはなれない！ その口惜しさに日々、身が裂かれる思いだ。ひ
とりの時の君を案じて、不安で気がどうにかなりそうだ。
それでも…それでもオレは、マリナ―――！」
かたく握りしめた手が、震えている。
たとえ君の全てが狂わされようとも―――この手は、離せないんだ！
…そんな血を吐くようなシャルルの叫びが、聞こえてきそうだった。
アルディを存続させなければならないシャルルの使命感。
全てを引き換えにしてでも欲しかった、あたしとの優しい時間。
この相反する矛盾が―――いつまでもシャルルの中でせめぎ合って、あた
したちを苦しめていた…。
わかっていたはずなのに…！
シャルルの一番の不安は、自分の力が及ばずにあたしの身が危険や憂き目
にあうこと…。
あたしはぎゅっと唇を噛みしめながら、自分の不用意な行動で傷つけてし
まったシャルルの苦しさと、わかっていながら…大好きなシャルルを守っ
てあげられなかった自己嫌悪との苛みに、目を背けないで耐えた。
目の前のシャルル。
傷ついて、見えない不安に苛まれて、独り世界に沈むシャルル。
ああ、何をやっているんだろう、あたしは！
シャルルにこんな思いをさせない為に一生そばにいて笑っていようって決
心したのに！
あたしはうなだれるシャルルに言葉をかけることも、触れることすら出来
ずに拳を握りしめていた。
そうすることすら、おこがましいようで…。
「バカね、考えすぎよ。大丈夫、何があってもずっとあんたと一緒にいるわ」
そう言うのは簡単だ。
でもそれだけじゃ、いつまでたってもこの繊細な愛は本当には安らげない
。
あたしの望む、シャルルとの生活はこれじゃ築けない。
力が欲しい―――。
シャルルの不安を拭える力、あったかく守ってやれる力、どんな困難にも
打ち勝てるように自分を強くする力、今日より成長できる明日をつかむ力。
悔しい…自分がいかに小さい存在かを、こんなにも思い知らされる！
その時、重なりあった手に強く力がこもった。
あたしははっとなって、急いで自分の心をつかみ直した。
あったかいシャルルの手…繊細だけどとても頼りになる、大好きな手。
そうね、あたしたち今までその力をつかもうと二人で頑張ってきた。
その努力はこうして実を結び、伴侶という素晴らしい結果を得ることがで
きたんじゃない。
体の成長と同じように”思い”も成長すると、あたしは思っている。
試行錯誤であれ、望んで努力を続ければ…いつしかきっと輝くものをつか
めるものだと、信じてる。
…信じてる！
頑張ろう、負けちゃだめだ。
失敗しても何度でも挑戦するわ。
そうしてあたしはマンガ家にもなったし、シャルルという恋人も得た。
なによりあたしたちはふたりだもの！
片方がいつでも手をさしのべられ
る。そうよ、負けるもんか！
あたしは立ち上がり、シャルルを優しく抱きしめた。
暗い海にいるシャルルの腕を、引っ張りあげる。
血を流す心に、優しくくちづける。
シャルル、あたしはあんたを選んだ時から覚悟はできてる。
アルディの重みも、あんたの心の世界にも、胸を張って立ち向かってやろ
うと、決心したんだもの。
この苦しみすら大切に思えるわ、だってこれはあたしを想ってくれるあん
たの愛情の姿なんですもの。
そう思えばほら、こんなに心が軽くなるわ…ね、シャルル。
あたしたちを苦しめている思いすら包括してきつく抱き合うと、ゆっくり
と…凍えた心が融けていく。
シャルルはあたしを包む腕をそうっと広げて、額にキスをくれた。
そうして絡み合う視線に、あたしは涙が出そうになった…！
なんて穏やかで、愛に満ち溢れた真摯な瞳。ブルーグレーのしなやかで美
しい光に、あたしは胸を打たれた。
温かい手があたしの肩に触れる。
シャルルの紡ぎ出す穏やかな愛が、そうやってあたしへと流れ込んできた
の―――。
「それでもオレは…マリナ、君を信じて、言うしかないんだ。
ひとりの時でも…これだけは忘れないで。いつもオレが君のことを気遣っ
ていることを―――。
オレの幸不幸は君とともにある。ひとりで何かする時は、…お願いだ、必
ずオレを思い出して…？ もし君がオレを想っていてくれるのであれば、
その結果はオレも納得のいくものなのだろうから…」
わかるだろうか、この時の気持ちが―――！！
あたしは、もう涙を止めることは出来なかった。
次々に涌きあがる温かい印はシャルルの指先を濡らしていき、満たされる
心は仄かな暖かさを持って…あたしたちを優しく照らした。
額をシャルルにそっとつけて、あたしは静かに目を閉じた。
白金のカーテンがあたしの頬をくすぐる…。
「うん…うん、わかったシャルル。あたしの中のあんたにちゃんと相談す
るわ、どんな時でも。あたしのやることが、あんたを悲しませないかどう
か…相談する。嬉しいよ…シャルル。あんたの愛が、あたしとっても嬉し
い。あたし、今まで以上に自分が誇らしく感じる。今まで以上に自分を大
事にしようって思う。大好きなあんたの為に…。不思議ね、あんたを愛し
いって思う自分もまた愛しく感じるなんて…。あんた以外にこんな深くて
優しい愛をくれる人は他にいないわ。ありがとう、シャルル…あたしあん
たに会えて、本当によかった。こんな気持ちを教えてくれて、ありがとう
…」
あたしはシャルルの全てに、いいようもなく惹かれた。
自分の運命を受け入れ、敢然と立ち向かう壮絶な姿に。
そして、それを完遂する原動力としてあたしを選んでくれたことに。
それは紛れもなく、自分にも心休める場所を作ることを許した、シャルル
のささやかで偉大な我侭。
シャルルはあたしをそばに置くことで、自分を少しづつ解放しようとして
いる―――！
あたしにはそれが、心が震えるほど嬉しいことだった。
あたしのなによりの望みは、あたしと一緒にシャルルがシャルルらしく自
由に生きることだもの―――！
あんなにも孤独だった彼は、今こうして安らいで微笑んでいる。
確実に自分を育て、あたしとその全てを分けあって―――。
「どうしよう、あんたがどうしようもなく愛しく感じるわ。想いがあふれ
て、持て余すほどに…。ねぇ、シャルル。あんたはいつも、こんな気持ち
であたしを見守っていてくれたの…？ いつも、いつも…！」
「マ、リナ―――マリナ…！」
瞳をあげ、あたしは全身全霊の想いを愛しいシャルルに向けた。
好き…大好き、一見冷ややかに見える物憂げなこのブルーグレーの目も、
皮肉と愛とを紡ぎ出す端正な唇も、みんなを魅了して止まないその天賦の
才も、ずっと抱えていた孤独も、繊細で臆病な…そのくせ激しい愛情も、
みんなみんな大好き…！
あたしは指先でその全てをなぞった。
あたしの与える甘美な感触に…震えるように唇が愛を告げようとする。
そっ…と、それを塞ぐ…。
「…シャルル、あたしあんたの告白は溢れるほど貰ったわ。今度はあたし
の番じゃない？ 愛の告白が似合うガラじゃないけど、あたしだってあん
たに伝えたいのよ。そうね…どうしても言いたかったらこう言って。
『ねぇ、マリナ、オレのこと好き？』
…って。あんたはあたしの愛を確かめていいのよ。…怖がらないで堂々と
聞いてちょうだい。そしたらあたしは胸をはってこう言うわ。
『うん、シャルル。あたしあんたのことがとても大事。愛してるわ』
って」
聞いたことの無い言葉でも耳にするかのように、シャルルはあたしを覗き
こむ。戸惑いと抑えきれない愛を抱いて…。
あたしは天使の頬を両手で覆って、感嘆の吐息をついた。
なんてすごい男の人だろう―――シャルル・ドゥ・アルディ。
「すごいわ…あんた本当にすごい。天才とかそんなんじゃなくて、あんた
の心の強さにあたし、圧倒される。変わったわあんた、とっても強くなっ
た！ あんたは混沌の中から自分で自分をつかんでここまで成長したのね
。昔のあんたからは考えられない…たとえあたしにでも、そうまで絶対の
信頼を寄せるのって難しかったと思うもの。
喜びなさいよ、シャルル！ あんたは他人を信じて信頼をよせる強さをつ
かんだのよ！
ほら、あたしを見てっ。わかる？ あんたにこんなにも恋してるあたしが
いるの、わかる！？
シャルル…初めて愛を重ねた１８の頃よりも、プロポーズを受けた時より
も…今日誓いの言葉を口にした時よりも―――ずっと、ずっと今のあんた
が好き！
そしてきっと明日のあんたはもっと好き！ おじいちゃんになったシャル
ルなんか、もっともーっと好き！…だと思う」
シャルルは小さく声をたてて笑った。幸せそうに、何度もあたしの頬を撫
で…。
ブルーグレーの瞳からは、シャルルの心を写しとったような綺麗な涙がこ
ぼていた。
「もう言える…自分に恥ずかしがらないで、ちゃんと言えるわ。
あたし、シャルルが欲しい。心も体も。あんたにおもいっきり甘えて、包
まれて、愛されたい。
ねぇシャルル、あたしを愛して。あんたの好きなように―――抱いて」
蜜月９
最後の言葉はシャルルの端正な唇に飲み込まれた―――。
強くきついシャルルの口づけに、あたしはしなやかに答える。
バスタブに腰掛けたまま、シャルルはあたしと向き合うように湯船に足を
つけて、膝の間にあたしを捕らえ愛し続けた。
肌を這う唇は噛み付くようで…胸に触れる熱い手は荒々しく乱暴で…。
自分の欲望のおもむくままに自由にあたしを求めるシャルルに、あたしは
とろけそうだった。
嵐のようなシャルルの愛に翻弄されながら、目の前のガウンに手を差し入
れてその広い胸をはだける。
その時、あたしははっとなった。
たくましい胸板には、さっきあたしがつけた爪痕がくっきりと残っていたの。
あたしはその甘い傷に触れながら、うっとりと目を閉じた。
あんたにもあたしの愛したあとがあるのね。
ねぇ、これを見るたびあたしを思い出す？ …あたしが、欲しくなる？
その追い立てられるような快感に逆らえず、もっとシャルルが欲しくなっ
たあたしは…そのしなやかな体を包んでいるガウンを、憎々しげに引っ張
った。
それに気づいたシャルルは素早くガウンを脱ぎ捨てる―――。
明かりの下にあらわになったシャルルの肉体に、あたしは息を呑んだ。
かつて少年だった頃に、陽にさらされたシャルルの体を見たことがあった
けど…
そう、雰囲気がまるで変わっていた。
鍛え上げられ、堂々とした大人の男性のそれに変貌していたシャルルの体。
あたしの知るどんな偉大な彫刻よりも、シャルルは美しかった。
その体を覆っている筋の一筋一筋すらが輝いて見え、それらはあたしを求
めるたびに激しく躍動する。
今までこの体に抱かれていたのかと思うと、あたしの顔にカッと血がのぼる。
「こんな時まで、赤くなるの…マリナちゃん？」
そうだったっ。明かりがついてるのよー！
シャルルは満足そうにあたしの胸に歯をたてて、密やかに笑う。
「あっ！ …い、たいわ、シャルル！ 少しは手加減…」
「しないよ。…もう心に誓ったんだ」
一瞬シャルルのブルーグレーの瞳が煌いて、あたしを射た。
「君を壊れるほど抱く…！」
その力強い決意に満ちた麻薬のような言葉に、あたしはあっという間に囚
われた。
「君をオレの愛で溺れさせてやる―――もうオレのことしか考えられなく
なるまで…どんな不安にも負けないほどの、強い絆を―――君に」
するりと繊細な指が、あたしの中に忍び込む。
―――あたしの体は眩暈がするほどのシャルルの熱愛に、とろけきってい
た。なんなくその悪戯な指を受け入れて、あたしの体は歓喜にたわむ…！
「嬉しいよ、マリナ…。心配しないでいい、この館にいる限りもう君から
目を離したりしないから。シャルル・ドゥ・アルディに同じミスは二度な
い…！
どんなに疲れてもオレがすぐ回復させてあげるから。良かったね
オレが名医で 」
魅了されずにはいられない悪魔の微笑みで、シャルルはあたしを激しく貪
り続けた。
言い返そうにもあたしの口から出るのは切ない悲鳴ばかりで、勝負になり
はせず、代わりにシャルルの肩にきつく爪をたててやった。
「ふふ…必死だね、君も。でもこんな痛みくらいじゃ、オレを止められや
しないぜ」
言うやいなや、邪魔だといわんばかりにあたしの片足を持ち上げ、腰掛け
ている自分の膝に引っ掛けてしまった！
あらわになった一番敏感な部分を容赦なく責められて、あたしは悲鳴を上
げる。
崩折れることも、逃げることも許さないと、あたしの腰にはたくましい腕
が巻きつく。
「あ！ ああっ！ いやっ、…シャルル！」
「オレのこと好き？ マリナ…こんなことをされても、オレのこと愛して
るかい…？」
「ずる、い…っ、そんな聞き方！」
「オレの性格を知ってる君のセリフとは思えないね…どうなの、マリナ？」
顔色すら変えずに指先だけであたしを狂わせ続けるシャルル…！
「…ええ、好きよ、憎らしいけど…どうしようもなくあんたを愛してるわ！」
ほぞを噛むほど悔しかったけど、この美しい暴君には…始めから敵うはず
なんてなかったの！
「オレもだよ…マリナ。愛しい反面、とても君が憎らしい。嫉妬という
醜い感情に気づかせて…このシャルル・ドゥ・アルディが防戦一辺倒だ。
この屈辱は一生かけてでも償ってもらう…マリナ、一生離さない！」
なんてまわりくどい、シャルルらしい言い方…！
あたしは激しい快感に晒されながら、シャルルの心の解放を喜んだ。
でも―――もうどうにも、限界だった。
「は、ああ！ もういやっ、シャルル！ 気がへんになっちゃう！」
シャルルはきつく唇を奪うと、かろうじて体を支えていた方のあたしの片
足を―――あたしをそのまま軽々と担ぎあげ、膝に置いて愛そうとした。
一瞬、シャルルが躊躇したのがわかった。
その行為は…まだ未熟なあたしの体を、ひどく痛めつけるとわかっていた
から。
でもその時あたしは信じられないくらい大胆になっていたの。
目の前で切なげにあたしを見つめるシャルルが愛しくて、あたしがどんな
にシャルルのことを愛しているかを、見せつけてやりたくて…。
あたしは迷わずその繊細な唇に…噛みつくように深く口づけた。シャルル
の呼吸すら、奪ってしまいたくて―――。
それに答えながら、シャルルは刹那にあたしをのぞき込む。その瞳からは
抑えようもないほどの激しい欲望の光がほとばしって、あたしの心にく
い込む。
あたしたちは…そうして密やかに契約をかわし、ゆっくりと、その熱い体
を繋げた…。
「―――！！」
瞬間、今まで感じたことのない凄まじい感覚が、あたしを貫いた。
激しい痛みを伴った狂おしいまでの快感が、あたしを喰い破ろうと内側で
暴れていた。
その痛みから逃れようと、反射的にシャルルの肩を強く抱いて、体を浮か
せる…。
呼吸はきれぎれ、体全体がバラバラになりそうな錯覚さえする。
「マリナ―――つらい…？」
それでもあたしの心配をするシャルルが、ひどくもどかしかった。
「いい、加減に、してよシャルル…！ あんまりあたしを、み、くびらな
いで、ちょ…だい。あたしはあんたが欲しいの…っ！ あんまり、ぁ…恥
ずかしい思いを、させ、ないで…このままの方が、…っ、ずっと苦しい、
わ…！」
あたしの精一杯の意地に、シャルルは嬉しそうに瞳を細める―――。
「上等だ…」
大きな熱い手が、あたしの頼りなげな腰に添えられる。そうして―――あ
たしはゆっくりと未知の世界のベールをくぐる。
もはや目を開けることも叶わなくて、次々あたしに襲いかかる苦痛と、わ
ずかにのぞく快感、シャルルの熱い肌と吐息だけが世界の全てだった。
体を支えようと思っても、指先ばかりがシャルルのたくましい肩にくいこ
み、膝も役には立たず、重力に逆らえないあたし自身の体重で、より深く
シャルルに繋がってしまう…。
このあまりの苦しみからシャルルは救おうとしてくれるけど、それでもあ
たしを求める気持ちには勝てないらしく、緩やかではあるけど確実に…あ
たしの腰を抱く手に力がこもっていった。
引きつるあたしの背を優しく撫でながら、シャルルは囁く…。
「マリナ…痛みを我慢しないで受け入れろ。そして目を開けてオレを見て
…さっきも言ったろ、意識を全てオレに向けてごらん。力を抜いて…想い
のままに声をあげて…ここではそれが許されるんだ。オレと君だけの…秘
密の館だからね―――」
魔法のようなシャルルの言葉が、強張ったあたしの体を融かしていく。
瞼を開けたと同時に見えた―――シャルルの、あたしを味わう恍惚の表情
に言いようも無い歓喜の気持ちが湧き上がる。
「…は…、君は素晴らしい…マリナ。その華奢な体にオレを受け入れ…オ
レの与える苦痛と快感に苛まれる君の顔…なぜそうまで…オレの加虐心を
くすぐるのだろう。マリナ…何に換えても君を大事にしたいと思っている
のに、時折君を…めちゃくちゃに壊してしまいたくなる…！」
「…ん…あ…は、ぁ、くう…シャルル…はぁ、もっ、とああ！ シャルル
もっと強く抱いて！」
あたしたちはきつく繋がり、お互いを激しく求め合った。
シャルルの突き上げは熱を増し、それに絡むようにあたしの叫びが不思議
なメロディを奏でる。
キーンと音が遠ざかり…次第に頭が真っ白になっていく。
そうするうちに―――あんなに苦しんだ痛みが跡形もなく消え、あとには
微笑みさえ浮かべてしまいそうな…甘い甘い狂暴なまでの快感ばかりが、
あたしの体を支配するのだった。
「す、ごい…あ！
こんなの知らないっ、ウソ、みたいよ！
シャル…ひ、
あ！
―――怖い、離さないで…とんでっちゃい、そうなの…！
シャルル
、シャルル―――あああ！」
貪欲に求め続けるあたしに、シャルルは惜しみなく極上の快感をくれる。
あたしの締めつけに苦悶の表情を浮かべ、それでもかろうじてのぞく瞳の
光は…愛にあふれていた。
汗に光る白磁の肌は、分け合う快感にうち震えていっそうの輝きを放って
いる。
シャルルがあたしの中で熱い楔となって、これ以上ないほどの絆となる―
――！ ！
「ああっ、シャルル…いい…気持ちいいよ、ぉ！ 愛し、てる…大好きシ
ャルル！」
「オレも、だよ…マリナ…。君の熱い体でオレは熔かされそうだ…！ 愛
してる、マリナ！」
「きて、シャルル、お願い、あたしの中に―――！！」
風のような一瞬の優しいキスをくれて―――シャルルは渾身の力で、あた
しを抱きしめた。
最後の瞬間まで、あたしはシャルルを逃がさなかった。
…荒い呼吸を繰り返す中、とろけるような熱いくちづけをシャルルと交わ
し、しっかりと抱き合う。
「ねぇ忘れないで、愛しいマリナ。…君がいたからこそ、今のオレが存在
するということを…。君とふたりなら、オレは何でも出来る。愛しい君が
愛してくれるなら、この自分すら手放しで愛せる…。これからの長い道、
どんな困難に会おうとも決してこの手を離さず、たゆまぬ努力をすると誓
おう。愛しているよ、オレのマリナ…」
穏やかな言葉は胸に響き、伝わる温かさはじんわりとあたしを包み込む…
。
あたしはこのうえなく安らいだ気持ちで、シャルルの広い胸に全てを預け
…いつまでもその鼓動を聞いていた。
途切れた意識が浮かび上がると、あたしはシャルルの膝の上で優しく抱き
かかえられていた。
覗き込むブルーグレーの光が、心に染みる…。
「汗だくのあんたも…すてきね…」
「君の声も、色っぽかったよ」
屈託無く笑い合って、優しく…深く…くちづける。
この素晴らしい時を祝って。
唇を離すとシャルルはあたしを抱きかかえて、シャワーへと向かった。
壁際にあたしを立たせようと、注意深く下ろしてくれたんだけど…さっき
以上の体験に、あたしの体は耐えられなかったらしく…足が立たないばか
りか、すっかり腰がぬけてしまっていたの―――。
ああっ、恥ずかしい！！
大理石にぺたりと座り込んだ情けないあたしを見て、それはそれは愉快そ
うにシャルルは微笑んでいたのよっ。
それでもシャルルは優しくあたしの体を洗い流してくれて、あたしはうっ
とりとその好意を受けた。
「ベッドに戻ろう。オレもシャワーを浴びるから、ちょっとここで待って
おいで 」
再びあたしを抱えてバスタブの下のステップに座らせて、シャルルは金色
のシャワーを手に取った。
もう、もう…その姿の美しいことといったら…ああ！
お見せ出来ないの
が残念だわ、ほっほっほ。
熱いお湯を顔で受けながら白金の髪をすき、…シャルルはしばらくそうし
て立ちつくしていた。
お湯に流されてあらわになったシャルルの繊細な美貌に、あたしは開いた
口が塞がらなかった！
シャルルのオールバックよっ、オールバック！
いつものうっとうしい白金髪は濡れて背中にながしてあるし、ああっ、あ
の秀でた額！
さらにきらめくブルーグレーの瞳、通った鼻すじ！
なんてきれいなのぉ〜、きゃ〜っ。
そしてっ、あの時見損なったお、お尻〜！
「なんだよマリナ、じろじろ見るな」
さすがにあたしのアヤシイ視線に気付いたシャルルは、ぷいと横を向く。
いいじゃないっ、へるもんじゃなし！
あ、そーよね、もう夫婦ですもの。
恥ずかしがらなくたっていーじゃないっ、ねー。ついでにスケッチとか
させてくれたら、もっと嬉しいんだけど…、なー？
あたしがしたり顔でそう言うと、途端に顔にシャワーの嵐が！
ぶ、おぼ、溺れちゃう〜、ぐえっ
ずるずると力の入らない体を引きずって、あたしは慌てて反対側へ回り込
んだ。
すると床に青やら緑やらの綺麗なビンが転がっている。
あれ、これってシャルルがさっき持ってきたやつよね。何かしら？
そのビンを取り上げて、あたしはシャルルに聞いてみた。
まさに水もしたたるいい男を地でいってるシャルル、滴を払いながらあた
しに近寄り、そのビンを手に取る。
「ああ、ヒビが入ってしまっているな。…マリナ、お前が蹴飛ばしたんだ
ろう？ 」
じろりとにらまれてあたしはうっとなる。
「そ、そんな、あたしのせいじゃないわよ！
その…あんなとこに置いと
くあんたが…あ、あんなとこではじめるあんたが悪いんじゃない！」
シャルルも同じようにくっと言葉につまる。
なんだか急に恥ずかしくなって、あたしたちは小さく笑いあった。
ふと繊細な指先があごに触れて、そっとシャルルの唇へと導かれる。身を
屈めてシャルルはあたしを抱きよせ額へ、まぶたへ、頬へとキスをくれて
最後に耳元に唇を押し当てた。
「きゃあ、くすぐったいわよぉ、やめていじわるシャルルっ」
幸せそうに微笑んでシャルルはあたしの髪に頬をよせる―――。
あたしを抱いたままバスタブの縁に手を伸ばし、落ちずに並んでいる…さ
っきシャルルが調合していたビンを取り上げ、お湯に数適こぼす。
あたしは体を起こして覗き込むと、ふわりと胸をすくような爽やかな香り
が立ち上り、浴室中に満ちあふれた。
「うわー、いい匂い！」
「君に合うように調合したバスオイルだよ。無駄になったけどね」
「えっ、なんで」
「なんでって、もうベッドに戻るんだから必要ないだろ？」
「えー、もったいないよ。あたし入るっ」
「だめだ。入浴というのは想像以上に体力を消耗させるんだ、さっき溺れ
たことをもう忘れたのか？」
「平気よ。だって今はシャルルも一緒だし。…ねー、あたしシャルルとお
風呂入りたいなー？」
そんなつもりはなかったんだけど、あたしの言葉はシャルルにはなかなか
刺激的だったらしく、シャルルは見る間に赤くなったの！
小さく吐息をついて、シャルルはちらりとあたしに視線を送る。
「仕方ないな…ただし、短時間にするんだぞ。体を休めないと本当にまい
っちまうからな」
シャルルはそう言ってお湯に入るのに手を貸してくれて、あたしがちゃん
と入ったのを確認してから、ぽんと頭に手を置いた。
「…マリナちゃん、君以外と甘え上手だな…やられたよ。オレ以外にそん
なことするんじゃないぜ」
ぱちんとウィンクしたシャルルに、今度はあたしが赤くなってしまう。
だーかーらー、そんなつもりはなかったんだってば！
恥ずかしくなってシャルルにお湯をかけてやったけど、ひょいとよけられ
たっ。
そのまま投げ捨ててあったガウンを拾って肩にかけると、シャルルは洗面
所よりの壁に向かった。不思議に思って見ていると、その壁の一部が開い
て、なんと中身は冷蔵庫！
シャンパンのボトルにグラスを２つ、それになにやらお皿にのった…あれ
は何っ？
それらを手にして優雅に戻って来ると、バスタブの縁に置く。
「君にはこれかな？
シルヴプレ、マダム」
その美貌のギャルソンが目の前に差し出したのは…ああん！
淡いグリー
ンに輝くライムのソルべ！
わーい、喉からからだったのっ、嬉しいっ。
あたしが喜んでそれをぱくついていると、シャルルはどこから取り出した
のか透明な真空ビンの蓋を開け、その中身もお湯の中に傾ける。
するとこぼれてきたのは液体ではなく、紅やピンクやオレンジのバラの花
びらだったの！
いつの間にか弱くなっていたジャグジーの泡に揺すられて、広がっていく
その華麗な絨毯に、あたしはため息が出た。
はぁー、なんて素敵なんでしょ、さすが唯美主義シャルル。
シャルルはビンを置いて、あたしの隣に体を滑り込ませた。
ふと気付くといつの間にか美しいアリアが聞こえてきて、よりいっそうの
ムードをかきたてる。
シャンパンのグラスを傾けながら、うっとりと瞳を閉じるシャルルは…も
うこの世のものとは思えないほど、―――綺麗だった。
あ、あたしはっ、ここにスケッチブックがないことを心底悔やみ、すでに
空になったお皿の縁をガジガジと噛んだっ！
「皿まで喰うな！ それ以上はだめだぜ、体が冷える」
そのあたしに気付いたシャルルが、ぴしりと言う。
違うわよっ、…いえ、ソルベはもっと欲しかったけど。
しぶしぶお皿を置いたあたしを見て微笑むと、シャルルはすいとあたしの
腕を取った。
黙って見ていると、とろりとしたものが腕にかけられ、シャルルはそれを
優しく延ばしながらマッサージをしてくれたのっ。
左腕…右腕…そして肩。
はじめはひんやりと爽やかだったマッサージオイルは、時間がたつとぽか
ぽかとあたしの肌を暖めた。
加えてシャルルの大きな手のうっとりするマッサージに、あたしは幸せを
噛みしめた。
不思議なことに、バスのお湯の香りもはじめの胸をすくようなものではな
く、ゆったりと落ちつく甘いバラのそれに変わっていた。
総てはシャルルの計算の内ってわけなのね…すごい。
あたしはシャルルの気遣いに感謝し、振り返ってその唇にくちづけた。
今度はあたしがシャルルの背後にまわって、マッサージをした。
優しくされるとおんなじようにそれを返したくなるわね…。あんただって
疲れてないわけないのに、ありがと…シャルル。
たくましい腕、がっしりした大きな肩に、あたしの小さな手はひどく不似
合いだったけど、あたしは心をこめてシャルルに触れた。
そうするうちに、ふとデジャヴ。
あれ？
なんかこんな場面どっかで見たこと…うーん…あ！
あれかっ。
あたしはイタズラ心を起こして、かつて羨んで見たあのシーンの再現を試
みようと、両足をあげた。
途端に腰掛けていたお湯の中の階段からつるっとお尻が滑って、哀れあた
しはどぼんとお湯に沈んだっ。
し、しまったっ、ジュリア・ロバーツとあたしじゃ等身が違いすぎたかぁ
ぁぁっ 。
ぶくぶく沈んだあたしを慌てて引き上げながら、シャルルは血相を変えて
怒鳴った。
「何をやっているんだ！
オレがいても溺れるのか、お前は！？」
あたしは弁解も兼ねてそのハリウッド映画の話をすると、シャルルはふふ
んと笑ってシャンパンを飲む。
「”あちら”らしい呑気なご都合主義な話だ、くだらん」
相変わらずこの男は〜！
いつかこのひんまがった思考を直してやんなきゃっ、ふたりで映画も見に
行けやしないわっ。絶対更正させてやるっ。
「なんて目で見てるんだい、マリナちゃん。第一もう羨むもなにもないだ
ろう？
君こそ地でいってるじゃないか、シンデレラストーリー。まさか
忘れてやいまいね、自分の立場を」
そう言われてあたしはぎょっとなった。
…えっ！？
あ…そういえばシャルルはフランスの誇り、きらきら輝くプ
ラチナの王子様っ。加えて右に並ぶ者もいないほどの大天才っ…忘れてた
はは。
その冷や汗を見逃すはずもなく、シャルルはくすりと笑ってあたしの頭を
撫でた。
「で、君はこんなのがうらやましかったわけ…？」
突然シャルルの声が後ろからしたかと思ったら、にゅっと脇から出てきた
すらりとした足に、あたしはがっきと捕らえられた！
ひゃーひゃーひゃーっ、シャルルの生足！
うっ、気絶しそう。これはた
まらなかったでしょうに、リチャード・ギア！
あたしがごっくんと生唾を飲んでいると、シャルルは耳元であきれたよう
に言う。
「今からあんまりはしゃいでいると、旅行に行けなくなるぜ、マリナちゃ
ん」
心臓バクバクのその戒めを解いて,シャルルはバスタブに寄りかかった。
新婚旅行…ねぇ。
「ねぇシャルル、ほんとに行くの？
あそこ…」
あたしが上目使いでシャルルを見ると、気分を害したと言わんばかりに、
ブルーグレーの瞳がぎらりと光る。
「オレが何の為にスケジュール調整をして多忙な中、一ヶ月もパリを離れ
たと思っているんだ、え？」
わかってるわよー、もう。
旅行はね、贅沢にも一ヶ月もかけて世界中を周るんだけど、予定に組まれ
ている最後の３日間が問題なのよー。
シャルルは珍しく、思いを馳せるような遠い目をして、天井を仰いだ。
「さすがのオレも空の天辺には出向いたことがないからな、…少なからず
心躍るね」
そう！ なんと宇宙に行こうっていうのよー！！
前に「世界を周って月まで…」なんて言ってたけど、まさか本気だったな
んてー！
はぁ、もう…やっぱりどんなに天才だって所詮は”男の子”よねっ。見て
よ、夢見るみたいにうっとりしちゃってっ、ついてけないわよねっ、ぷん。
しかも自分でシャトルを操縦するってきかないのよっ！
あたしが止めるのも聞かずに、
「オレはフランス空軍将軍の地位にいる。操縦資格は充分に満たしている
んだ、文句あるか。それにこのオレに出来ないことなどないんだ」
って、さっさと渡米しちゃう始末。
ていうか、ホントに一月でマスターして帰って来ちゃうんだから、信じら
れないわよね。止めなさいよ、ナサ！
あたしたちが行くところは地球の軌道上を周ってる”宇宙ステーション”
ってとこらしいんだけど、今はバカ高いお金を払ってわざわざ観光に行く
お金持ちが増えてるらしくって、アルディの当主が新婚旅行に選んだって
…実は巷ではたいそう話題になってるらしいのよねぇ。
ああっ、そんなに目立ちたくないのにっ。
…それ以前に、正真正銘足元に地面が無くなるのよね、コワイじゃない！！
だいたいあんな真っ暗けのとこ行って、何があるっていうのよっ。
それも２日間も滞在するんですってよ、はぁー…。
ああっ、どうか無事に地球に帰って来れますように！ まだ食べたこと無
いものがいっぱいあるのに、あんなとこで死んでたまりますかっ。
あたしの百面相をじろりと睨んで、シャルルは憮然として言い放つ。
「マリナの行きたくない理由はわかっているんだぞ。怖いだなんだと言っ
ておきながら、本当は君の食指が動くような食べ物がないからなんだろう」
ぎ、ぎくっ
「世界を周って君の食道楽に付き合うオレの身にもなって欲しいもんだね
最後の日程くらいオレの自由にしても、まだ釣りがくるというものだ、
ふん」
シャルルはふてくされたみたいに、つんと横を向いた。
わ、わかってるってば、ちゃんと付き合うじゃないっ。…でも、美味しい
宇宙食提供してよねっ、ねっ。
あたしはえへへと笑いながらシャルルににじり寄り、ほっぺにキスしてあ
げた。
「ねぇ、シャルル。そのステーションって、無重力なわけ？ あたし２日
間も地面を踏めないなんてやーよ。気持ち悪くなりそう」
素朴な疑問をぶつけただけなのに、シャルルはひどく驚いて息を呑み、つ
いで思いっきりうなだてしまったのっ。
「マリナ…君は、あれほどオレが講義したにもかかわらず、全然理解して
いないわけか…ああ、あの時間は何だったんだ。…もう君は宇宙に捨てて
こよう、地球にいても貴重な食料を食いつぶすだけだ、決めた」
真面目な顔して言うシャルルにひえーっとなって、あたしはあせってぶん
ぶん首を振った！
思わずダンボールに入ったあたしが、真っ暗な宇宙を漂っているとこを想
像しちゃって、ゾーッとなったっ。
シャルルは髪をかきあげ、重いため息をついてぎろりとあたしを睨む。
「いいか、もう一度同じ質問をしたら本当に宇宙に捨てるぞっ。―――ス
テーションは自身の回転運動で発生する遠心力を利用して、ある程度の重
力を作り出しているんだ。それに特殊な磁気を帯びたシューズの着用が義
務づけられている。日常生活を行うくらいには、不自由はしないはずだ。
…どうだ、大分、本当に大分割愛して説明したが、わかっていただけたか
な…？ 脳みそカラッポのマリナちゃん？」
あたしはまだ聞きたいことがあったんだけど、シャルルのあまりの怖さに
うなづくしかなかった。
まいいわ、あっち行ってからいやでも体験するんだし。習うより慣れろよ
ね、なんとかなるでしょ。
―――と、そこで納得してたら、ある考えがあたしの頭をよぎった！
それは見る間に頭の中に広がって、しまったと思ったけど思わず顔が赤く
なってしまった。
シャルルは目ざとくそれに気づいて、ブルーグレーの瞳に不信げな光を宿
す。
「どうした、マリナ？ …え？ 月の重力？ 地球のおよそ６分の１だが
…それがどうしたんだ。オレには言えないことなのか？」
あたしは顔半分お湯につかって、必死にシャルルの問い詰めから逃げよう
とした。
だってーだってー、ううっ。
でも逃げられるはずは無く、その胸に捕らわれて見透かすようにじいっと
覗き込まれる。
「マリナ…オレに隠し事なんてなしだぜ。もし逆の立場だったらどうだい
？」
う…いやかも。
にっこり笑ってシャルルはあたしの鼻先にキスをする。
んーもう、すぐ顔に出ちゃうこの性格どうにかならないかしらっ。
あたしは仕方なく観念してシャルルの耳元に口を寄せた。
「だから、ね…そのー、重力がないからー、そういうとこで…その、し、
したら…６回しても…１回分にしか、ならないのかなー…なんて」
途端にシャルルは大爆笑。
ご丁寧にバスタブまで叩いてっ。
なによっ、必死で正直に言ったのに！ クールな美貌が崩れるわよっ。
そうしてしばらく笑ってから、シャルルはあたしの肩に腕を回した。
「ああ、君は本当にユニークだねマリナちゃん。いいとも、実に楽しそう
な実験じゃないか。喜んで付き合うよ、…６回といわず何度でもね」
シャルルは瞳を細めてうっとりと囁いた。
あたしはうっとなって、益々顔に血が集まるのを感じた。
言いたくないけど…シャルルって絶倫よー！ この細い体のどこに、あん
な激しいことする体力があるっていうのよっ。
相手をするあたしの身にもなってっ！
赤い顔でむくれているあたしの頬に優しくくちづけて、シャルルはシャン
パンのグラスをくれた。
自分もそれを手にして、そっと近付ける。
薄い華奢なガラスは、あたしたちの間に華やかな音色を放つ―――。
すると、あたしの耳ですらその美しさに気付くほどの、綺麗なアリアが流
れ出した。
「きれいな曲ね…なんていうの？」
うっとりと聞き惚れていると、シャルルはあたしを後ろから抱くようにし
て体を寄せる。
「”まことのやすらぎはこの世にはなく”―――ヴィヴァルディのモーテ
ット、経文歌さ。聖書の詩篇から選ばれた歌詞で出来ているんだ」
シャルルは流れる歌に合わせて、その歌詞の意味を教えてくれた。
まことのやすらぎは、この世には
苦悩なしには得られない。穢れない真の平和は
優しいイエズスよ、あなたのうちにある。
辛苦と苦悩のただなかでこそ
魂は、満ち足りて
まことの愛への希望のうちに生きる。
その響く玲瓏な声にあたしは目を閉じ、ただシャルルの体を感じた。
歌が終わるとシャルルはゆっくりとあたしの体を抱きしめ、永い吐息をつ
いた…。
「…オレのやすらぎは、マリナ…君の内にある…」
微かな声で呟いてあたしを抱く手に力をこめ、頬と頬とを近く寄せる。
確かなシャルルの温かさを感じながら、あたしは宝石のように輝くブルー
グレーの瞳を見上げる。
何度見ても心に染み入るその優しい光は、あたしだけの宝物―――。
「そうね…本当のやすらぎは自分の大切な人の中にこそあるのよ。地に足
つけて一緒に笑って、泣いて、ケンカして、そうして培っていく繋がりの
中に見つけるもんだわ。こんな確かなあったかさ、神様は持ってないもの
。ね、シャルル」
あたしの言葉に、シャルルは極上の笑顔をくれる。
無邪気に…屈託無く…心の底からのあふれる笑顔。
「そうだね」
あたしは、シャルル・ドゥ・アルディという男性を伴侶に持てたことを神
様に…ううん、全ての何かに…感謝した。
蜜月〜eternite
「マリナ、支度できたかい？」
「うん、今行く」
ドア向こうからシャルルの呼ぶ声が聞こえる。
あたしはテーブルの上に乗ったボストンバックの中身を確かめた。
実際瞬きする間ほどに,蜜月の館での日々はあっという間に過ぎ去った。
シャルルと出会ってから長い時が経っていたけど、こんなふうにふたりっ
きりで過ごすのは、実は初めてで―――あたしはシャルルの持つ新しい魅
力に、魅せられっぱなしだった。
時計すらないこの館で、好きな時におしゃべりし、好きな時に抱き合い、
好きな時に眠り…そうしてゆっくり、あたしたちはお互いの時間を揃えて
、ふたりだけの秘密をたくさん共有した。
「おサイフに、パスポート…おやつは、ばっちりっ…と、足りないかしら？」
こうしていても次々湧き上がってくる様々なシャルルの表情、言葉、惜し
みない愛情―――。
幸せだった。
この館で過ごした３日間は、これからのあたしになくてはならない、かけ
がえの無い大切なものをくれた。
「ま、こんなもんかしら。さぁて、世界の美味しいものよっ、待っててね！」
バックのファスナーを閉める時、一番上に置いた物に目がいった。
…それは、あたしがずっと大事に使っていた、あのポシェット。
ハンカチ、ティッシュ、パンツに小銭。
そして、あたしの分身ともいうべきあの赤いぼんぼりの髪ゴム。
あの時はこれが全てだった。
スケッチブックを片手にどこまででも行った。
今でも―――あたしの大切な心の支え。
これからの冒険は、シャルルとふたりだ。
手を繋いで行くわ、どこまでもっ。
あたしは赤いぼんぼりを手に取り、ポケットへとねじ込んだ。手に馴染む
懐かしい感触を感じながら、バックを持つ。
一通りその素敵な部屋を見まわして、あたしはドアを開けた―――。
「行こうか」
天蓋の開け放たれたベッドの柱にゆったりと寄りかかり、シャルルはあた
しに微笑む。
その不思議な夜を創り出してくれたこのベッド―――明るい日差しの中で
魔法が解けたように静かに眠っているみたいだった。
「なんだいマリナそのバックは、パンパンじゃないか。いいか、手荷物と
いうのは貴重品だけでいいんだぞ。…まさか」
裸足で歩き回ったこの素敵な絨毯、バラの香りが微かに残る優しい空気、
心落ちつくアンティークな家具たち、みんな、ありがとう。
「なによっ、あたしにとっておやつもスケッチブックも大切な貴重品だわ
っ。途中でお腹が減ったら地獄だし、もし書かずにいられない貴重なモノ
にでも出会ってしまったら…その時後悔したくないじゃない。これがあた
しの万全の備えなのよっ、文句あるっ」
はじめの夜に食事をした大きな楕円形のテーブル。
ぱりっと糊のきいた真っ白なクロスをかぶって、静かに佇んでいる。
さっき飲んだティーセットが,その上に手持ち無沙汰そうに並んでいた。
「…もう何も言うまい。こら、クッキーのカスを食べるなっ。まったく君
はいつになっても変わらないな…」
ぶつぶつ言いながらシャルルは、最後のバラの紋章の扉に手をかける。
「あ、ちょっと待って、シャルルっ」
あたしの呼び止めに、シャルルは白金の髪をかきあげながら振り返る。
一瞬静寂が訪れて、ふいにあたしの心臓はドキドキと温かい鼓動を刻みだ
した。
それはこのドアをくぐって初めてこの部屋に入り、シャルルと向き合った
あの夜とは異なり、穏やかで甘酸っぱい幸せに喜んでいるような、そんな
ステキなリズムだった。
部屋に満ちる優しい空気を吸って、あたしは目の前に佇むシャルルに言っ
た。
「ここに連れて来てくれてありがとう。正直…初めはどうなるかと思った
けど、あんたとこんなに素敵な時間が過ごせて、あたしとっても幸せだっ
たわ。本館にいる時のあんたは、いつも見えないベールに包まれているみ
たいで、どっか遠い感じがしたんだけど、ここでそれを脱いだあんたに会
えて…あたしまた…あんたに恋しちゃったみたい。
短かったけど、とってもゆっくり出来たね。楽しかった！
ねぇ、シャルル？ あんたがこの一ヶ月間の旅行期間をあけるのにどんな
に頑張ったか、あたし知ってるけど…それやめてここにいない？ そした
らあんたもずーっとのんびり、ゆっくり出来るし。無理しないでいいのよ
、あたしは全然構わないし…というか、ここに住んじゃいたいくらいだっ
たもの」
あたしの言葉を染み入るような微笑で聞いていたシャルルは、身を屈めて
目線を合わせ、大きな手をあたしの髪に差し入れた。
「―――ありがとう、マリナ。オレもここで君とふたりきりで過ごした日
々は、本当に楽しかったよ。なにより…君がオレの胸の内にいるってこと
が、はっきりと確信出来たしね。
こんなにも心穏やかで、それでいて浮き立つような幸福感は生まれて初め
てだ。…君がそばにいるからだよ」
くしゃくしゃと頭を撫でて、シャルルはほっぺにキスをしてくれた。
「気遣いは嬉しいが、君と一ヶ月もここにいたら、オレはもうそのまま引
退しちまいそうだよ。それほどに…君という甘い麻薬は、オレにとって危
険に満ちているのさ。だから惹かれて止まないんだろうね…ふふ。
旅行は行こう？ オレにとっては、マリナと一緒ならばどこにいても心安
らげる場所なんだ。
永久に終わらない―――永遠の蜜月さ」
ブルーグレーの瞳が輝きを放ちながら潤んで,あたしに語りかけている。
愛をすることの大切さを―――。
天使の頬を傾けて…白金の絹糸の髪を揺らし…繊細な指先があたしの頬を
包み込む。
少し冷ややかなシャルルの唇があたしに押し当てられ、熱い吐息が混じり
あう。
互いにそっと回した腕に抱かれあい、魂を捧げるくちづけを交わす。
恋から愛へ、信頼は絆に、痛みは分け合って―――
それはいつまでも終わることなく,あたしたちの間に在り続けるだろう。
シャルルの大きな手、あたしの小さな手。
同じ温かさをもって、あたしたちはバラの紋章のドアをくぐった。
「…ャルルに、分けてあげるわ、おやつ」
「…嬉しいね、やっとそういう気持ちになってくれたのかい、マリ…」
「…のかわり、お料理いっぱい食べ…」
「…クターストップで旅行がだめになるのはごめんだ…」
「…んたこそシャトルの運転大丈夫なんで…」
「…れだと思ってる、たとえ太陽が西から昇ったとしても…」
「…ーんだっ、でも何より信頼出来る言葉よね、あんたが言…」
「…レの妻である君には完全なる安全保証を約束…」
「…ふ、頼りにしてるわ、ダンナさまっ。大好き、シャル…」
「…も愛しているよ、マリナ。でも食べ過ぎにはくれぐれも…」
―――コーヒーカップに囲まれた美しい一輪挿しの花瓶には、情熱的な深
紅のバラと、清廉な純白のバラが、寄り添うようにそこにいる。
誰も知ることの無い二人だけの会話を、そのバラたちだけはひっそりと…
聞いていた。
〜Fin
01/10/30 purupuru
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