昇 華

-1-

　とても温かく、力強い手だった。
　自分の手が、嬉しさと恥ずかしさ、そして先に与えられた甘美な刺激で、震えているのか痺れているのか分からなかった。
　けれども、今、自分の手を包む温かさが、心も包むのだけは確実に分かる。
　そしてさっきまで心の中を占めていた嫉妬や悲しみといった感情が、洗われたように真っ白になる。
　その白さが、今目の前にいる人物をさらに強く意識させる。

　……あなたの色に染まってるの？……



　震える手を握り締めた。
　少し冷たいこの手を、自分の熱で温めてやりたかった。彼女にいつもそうしてもらっているように。
　泣きながら自分の気持ちを素直にぶつけてくれたのが可愛く見えて、何でもしてやりたかった。
　そして、嫉妬や悲しみという感情が彼女を侵していることがたまらない。そうさせてしまったのが自分だから、なおさら。
　それならば、彼女をそれらから救い上げるのも、自分しかいない。

　……願わくば、彼女の心を占めるのは自分だけであるように……





　満天の星空の下、車に揺られながら、二人はずっと無言で寄り添っていた。
　けれども、手だけは指を絡ませるようにしっかりと握りあっていた。
　時折、相手の手の感触を、ぬくもりを、もしくは心を確かめるためにか、ぎゅっと握る。
　そしてすぐさま返ってくる反応に安堵する。

　きらめく星々の元、二人の無言の会話は続いた。

　車はアルディ家の正門へと続く並木道に入った。その木々がマリナの目に入った時、繋ぎ合った手がシャルルに引き寄せられた。
　目をやると、シャルルが手の甲に口づけるところだった。
　軽く押し当てるだけの優しい口づけだった。
　けれども、そこから新たな熱が流れ込み、マリナの頬が上気する。
　こちらを見つめるブルーグレイの瞳には、深い愛情が込められた光が浮かんでいる。
　マリナは微笑み返す。同じだけの愛情をこめて。

　それが、返事だった。





-2-

　シャルルの部屋の前に着くと、シャルルは扉を開けながらマリナの肩を優しく押して、部屋の中へ入れた。
　パタンと扉を閉めると、部屋の中に暗闇が広がる。
　その暗闇に一瞬躊躇したマリナを、シャルルは後ろからふわりと抱きしめた。外見からはそうとは伺えない筋肉質な腕と胸と、愛用の香水がいつものようにマリナを包む。
　それらがマリナを安心させた。
　マリナは、無言で自分の前で交差する腕の片方を取ると、その手の甲に口づけた。
　かすかな音を立てて唇が離れると、その音に誘われたようにシャルルの抱擁がきつくなった。
「マリナ……」
　耳元に下りてくる熱い吐息。
　こめかみ、頬、耳の付け根と、順々に下りてくる唇は、髪をかき分けて首筋にも触れてきた。
　そのくすぐったさにマリナは身を震わせ、シャルルの腕をきつく握る。
　シャルルが首から肩にかけて背骨の浮き出たラインに口づけ、甘く噛むように歯を立てた。
「あ…」
　思いの外痺れるような刺激が背筋を走り、マリナはたまらずに声を上げ身を捩じらせた。
　シャルルはその動きを利用してマリナの体を自分に向かせた。そして、彼女の顎をしゃくって上向かせ、堰を切ったように口づけた。
　ここに帰り着くまでに押さえていた情熱が解放され、一気に燃え上がりシャルルの体を熱くさせる。
　唇を割って入ってくるもののなぶるような動きに、マリナは意識が遠のきそうだと思った。

　けれども、これは、お互いの気持ちを交わすために必要なこと。
　今までの愛情の交感とは違い、今夜告白しあった互いの恐れと不安と悲しみを打ち消すためのもの。

　シャルルにキスされるがままで、ぼうっとしているばかりではいけないのだ。
　そう思ったマリナは、両腕を伸ばしてシャルルの首に絡ませ、シャルルを引き寄せるようにして自分からも口づけた。
　シャルルは、驚いたように動きを止めたが、それもほんの少しの間だった。
　片腕でマリナの腰をさらに強く抱きこみ、もう片方の腕を背中に伸ばし、ドレスのファスナーを一気に下ろした。
「……っ！」
　マリナの小さな悲鳴をも飲み込んで、シャルルはファスナーの間から手を差し入れた。そして滑らかな背中を楽しむように撫でる。
　シャルルが触れる箇所から刺激が伝わって、マリナはその度にぴくっと反応してしまう。そして、シャルルの温かい手が描くその軌跡が、徐々に熱を帯びていくのを感じていた。





-3-

　暗闇の中だからこそ、視覚以外の感覚が鋭くなる。
　それが、今もなお与えられる唇の熱とあいまって、マリナの体から力が抜けかかった。
　唇を離し、シャルルの胸にすがりつく。
「はっ…、シャル、ル……あふ」
　シャルルは、自分の胸に伝わる柔らかさと温かさをもっと感じたくて、マリナの髪に口づけを落としつつ、手を背中から肩へと滑らせてドレスの襟口を肩まで引き下ろした。
　肩は、予想外にひやりとした冷たい感触を返した。それを温めるように丁寧に何度も撫でる。そして、小さく上下する鎖骨に口づけ、自分の証を刻む。
　マリナは敏感に反応し、体を震わせ、シャルルの背中に腕を回してぎゅっとその上着を握りしめた。
「……シャルル、もう立ってられないわ」
　囁くようなかすれた声だった。
　シャルルはそれでも無言で、唇と舌で柔らかな喉元をなぞり上げた。
「あっ、…んん」
　シャルルはその甘くて可愛い声すらも逃したくなくて、再び口づける。
　嵐のように激しく煽情的な口づけだった。
　マリナの全てを奪おうとするかのような、自分の全てを与えようとするかのような。

　一体どれほど口づけを繰り返して愛を伝え合っただろう。
　けれども、マリナは知っている。
　口づけだけで完全にお互いを知ることはできないことを。全てを与え合うことはできないことを。
　それを教えてくれたのは、自分の腕の中の恋人。

　マリナは目を開くと、シャルルの頬にそっと手を当てた。
　シャルルは唇を離した。
　二人、見つめ合う。
　暗闇に慣れた目には、外から差し込むかすかな星明かりでも互いの瞳に浮かぶ光を見て取れた。
　それが同じものとも分かる。
　マリナはシャルルの耳に唇を寄せた。

　…………ベッドへ……

　マリナは、自分の心臓が拍動する音の方が大きいのではと思った。それくらい微かな囁きだった。
　しかし、シャルルはそれをはっきりと聞き取った。
「マリナ……」
　一度強く抱きしめた後、肩と背中をはだけさせたままのマリナを優しく抱き上げると、寝室へ続く扉へと歩き出した。





-4-

　マリナは、静かに揺られながらシャルルの肩に顔をうずめていた。
　マリナが自分からシャルルを誘ったのはこれが初めてである。正直に言えば、恥ずかしかった。
　しかし、結局は自分の羞恥などはどうでも良いことだった。シャルルの全てを自分のものとしたかった。そして、シャルルの不安を和らげてやりたかった。
　たとえアルディの家が自分達のことを認めていなくても、そんなことは関係なく、自分の愛情はシャルルにあるのだと教えてあげたい。
　今夜こうしても、シャルルの不安は完全には消えないだろう。けれども、二人の愛情は確かに在るのだと信じることだけは忘れて欲しくない。シャルルの心の中をただ不安だけにはさせたくなかった。

　寝室は、ベッドサイドにあるランプ型の小さなスタンドに柔らかく照らされていた。
　シャルルはベッドへたどり着くと、その端へマリナをそっと座らせた。
　この少女が先程のたった一言を言うのにどれくらい勇気を要したか。その言葉の裏には、マリナの悲しみや寂しさも確かに存在し、そうさせてしまった自分にやりきれなくなる。
　それと同時に、初めて受けるマリナからの誘いにシャルルの胸の炎はますます燃え上がった。
　今夜は、いや、これから先ずっと、離せない。離したくない。
「マリナ、君はオレだけのものだ」
　身をかがめ、頬に優しく口づけた。そして反対側の頬にも。
「そして、オレは君だけのものだ」
　柔らかな羽根を思わせる口づけが繰り返される。
「……君を悲しませた償いをしたい。受け取ってくれるね？」
　ランプの光で微妙な陰影ができ、それでもなお隠れない真摯な光を浮かべる瞳に、シャルルの表情はよりいっそう真剣に見えた。
　マリナは誘われたように腕を伸ばし、シャルルのタイを抜き取った。次にシルクのシャツのボタンを外し始める。
　それを承諾と受け取ったシャルルは上着を脱ぎ捨て、マリナの背中と両膝の裏に腕を通してベッドの上に横たわらせた。



　そして、二人はシーツの波間に身を沈めた。
　やがて襲ってくる快楽に翻弄され、何度も互いを求め合った。
　潤んだ瞳で、熱い吐息で、さまよう様な愛撫で、愛を伝え合った。

　シャルルは、時に優しく、時に荒々しくマリナの全てを愛した。
　マリナは、与えられる刺激に恍惚となりながら、シャルルの全てを受け止めた。

　薄れ行く意識の中で呟いたのは、愛しい相手の名前だけ。





-5-

　マリナが目覚めると、シャルルの腕の中に閉じ込められたままだった。
　真っ先にシャルルの裸の胸が目に入り、頭上からは穏やかな息遣いが聞こえてくる。
　目線を上げると、無防備で安らぎに満ちたシャルルの寝顔。その肩越しに、カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいるのが見えた。
　陽光にシャルルの白金の髪が透けて、輝いて見える。それに縁取られた形のいい耳や白い首筋、そこに続くたくましい肩がとても色っぽく見えた。
　思わずそこに手を伸ばし、シャルルを起こさないようにそっと撫でる。
　が、それはすぐに終わった。マリナの手をシャルルがそっと握ったのである。
「人が眠っている間に触るのは、反則だぜ」
「あ……」
「おはよう、マリナ」
　長いまつげの下から、物憂げなブルーグレーの瞳が現れる。その瞳がマリナに愛していると告げている。
　マリナは頬を染め、手を引く。
「おはよう、シャルル。よく眠れた？」
　シャルルは握ったままのマリナの手を取り戻し、唇を押し当てた。
「ああ、とてもよく眠れたよ。もう少しこうして眠っていたいくらいだ」
　マリナは優しい感触にくすくすと笑みをこぼしながら、シャルルの胸に頭をすり寄せた。
「もうお日様は昇っているわよ、シャルル」
「いや、まだ昇っていないさ。こうしてオレが閉じ込めているからね」
　と言って、シャルルはマリナを抱く腕に力を込めた。
「きゃあ、ちょっと、苦し…」
「……苦しくても許して欲しい。どうあっても手放したくないんだ」
　マリナの髪に頬をうずめ、ぽつりと呟く。マリナはその呟きの中に、切なげな響きが混じっているのに気付いた。
「シャルル」
「ん？」
「足りなかった？」
「何が？」
　マリナは顔を上げてシャルルを見た。
「あたし、夕べはありったけの気持ちをあんたに伝えたつもりなの。シャルルが好きっていう気持ちをね。それでもシャルルには足りなかった？だからそんなことを言うの？」
　少し不安げな、それでもまっすぐな眼差しで見つめられ、シャルルは驚いた。そして、参ったな、と苦笑する。
「マリナ、違うんだ。君の気持ちは十分に伝わってきたし、オレはきちんと受け取ったよ。でもね、君の気持ちが嬉しくて、そのままずっと手に入れておきたいという意味で言ったんだ。それに、夕べの君はいつも以上に可愛らしかった。誰の手にも渡したくないほど、ね」
　マリナは、その言葉とともに頬を滑り落ちる細くて長い指に、明け方近くまで続いた情事を思い起こし、恥じらってしまう。
「やだ…」
「いっただろう？君はオレのものだ。オレだけのマリナ……」
　シャルルは、赤く染まったマリナの頬に唇を落とした。
　そして、マリナが答えた。
「そうよ。そして、あんたは私だけのものだわ。あたしだって、あんたにいつまでもくっついて離れないんだから。覚悟してよね」
　そこで二人は見つめ合い、そして幸せそうに笑った。



　こうして恋人達は、愛情と充足感と、そしてかけがえのない相手を胸に抱いて、また眠りに落ちていったのである。