行方も知らぬ恋の道

マリナは、自身の魅力にまったく気づいていない。

だから、平気でオレの心をかき乱すのだ。

そんな彼女が、アルディの執務室にやってきたのは７月１３日の夜更け過ぎ。
「革命記念日って要はお祭りなんでしょ？」

マリナが問いかけた。

「違う、1790年7月14日におこなわれた一周年式典は共和制政府によっておこなわれた大規模な国家式典で…」

「ああ、もう難しい話はいいからっ」

「君に分かりやすく説明してるだけなんだが？」

フランス人にとっては常識だが、日本人の彼女からしたらピンとこないのかもしれない。
ただ、大規模なイベントだけが、祭りだと感じてしまうのだろう。

「あのねシャルル。あんたが忙しいのは理解してるのよ。でもね、どうにか時間とって一緒に花火を見に行かない？
今年が２２０年目の革命記念日なんでしょ？　とっても盛大だってＴＶでも言ってるし…ね？」

上目遣いの目が潤んでいて、オレを捕らえる。
少し頬が赤く染まって、その色をオレだけが見られる幸せに身体が震える。
めったにないマリナからの誘いを断れるわけがない。

ゆえに、明日からの予定は全てキャンセルとした。
変えようのない決定事項だ。

予定をキャンセルしたはいいが、日は傾き始めてもマリナはまだ現れない。

マリナの部屋の前で待ちわびているが、

「もうちょっと待って、ああ絶対入っちゃだめよ」

と、立ち入りを拒否される。

そろそろエッフェル塔に向かわないと、会場は人で溢れてマリナが望む花火が見られなくなる。
アルディの名を出せばVIP席ぐらいは用意できたであろうが、そういう特別扱いされるのはマリナが窮屈だろうと
考慮し、普通の恋人が気軽に出かけるような感じで準備をした。

そう、マリナからの誘いに浮き足立ってるのは否めない。

マリナがアルディに滞在するようになって数ヶ月。
進展があるようでないような微妙な関係ではあるけれども、それでもマリナが傍に居る。

どんなにアルディの当主としての責務があっても、自身が請け負う医者としての重責があっても、
彼女の姿を視線で必ず追ってしまうのだ。

オレとマリナの関係を表す四字熟語は、紆余曲折、艱難辛苦、七転八倒。
得られない象徴であったマリナ。

だが、彼女自身の選択で、彼女は今ここに居る。

それだけで、幸福に酔いしれる。

でも、これはオレだけの満足で、マリナ自身はどう思ってるのかは分からない。

心を鷲掴みにされてるのはオレ。
彼女の心は見えない。

今後、日本に帰ってしまう可能性も否定できない。

実際、オレが想っているだけで、何も進展はしてないのだ。
オレが答えを出せていない。

この先、マリナが居ない生活など考えられない。
一瞬であっても、離したくはない。

ならば、オレは答えを出す。

彼女は夢などではない。オレの現実だ。

そんな思惑を打ち崩すように、マリナが現れた。

目の前のマリナは浴衣姿だった。

着るもの一つでこうも違うとは…。

紺の生地に浮かび上がるのは白の萩。
黄八丈の帯が暗めの生地色を引き立たせた。
日本独自の古典柄は、派手でない分その人物を落ち着かせる作用がある。

そう、目の前のマリナは、完全に女。

普段、マリナはおしゃれに気をつかうほうではない。
なのに、目の前の彼女は長めの髪をアップスタイルにして、別人のようだ。

「待たせてごめんね、シャルル」

出合った頃よりも、昨日よりも、今現在の彼女は鮮やかで…。

「いや…」

オレは動けない。
言葉を知らない幼児のように口を開けたままだ。

「着付けが上手にできなくて…」

一緒に出かける為に着慣れない浴衣を一生懸命着付けていたマリナに、堪らなくなるほどの愛おしさがこみ上げた。

自然と腕はマリナを引き寄せ、その小さな身体にぴったりと自分の身体を密着させれば、
浴衣の上からふわりと柔らかく甘いマリナが持つ独特の香りがした。

このまま担ぎ上げて、寝室へと運びたいほどだ。

「ちょっ、シャルル…何すんのよっ」

自然と腕はマリナに絡みつく。
腕の中で身を捩るマリナがいじらしい。

「誘ったのは君だぜ？」

「あたしが誘ったのは革命記念日のエッフェル塔での花火見物なんだからね。勘違いしないでよ」

顔を真っ赤にして抗議する姿ですら、可愛らしいと思えて仕方ない。

「早く行かないと花火見られないじゃないの」

更に身を捩るマリナ。
着付けが崩れない程度に、抱きしめた。

マリナがあまりにも可愛くて。
本気でこのまま拘束したいぐらいだ。

「花火？ああそうだったね」

とぼけてみせた。

「あのね、どうしてあたしがこんなに頑張ったのか分かってるの？」

彼女の鼻息が荒くなる。

「オレの為だろう？」

そう、ある意味ズボラな彼女はここまではしない。

「違う、お祭りの為よっ」

思いっきり顎に頭突きをくらって、オレは仰け反った。
あまりの痛さに火花が散る。

その隙に、マリナはアルディの敷地を抜け出してしまっていた。

「マリナ」

悪ふざけが過ぎたのかもしれない。

マリナは恋愛に対してはとても内気で。
まだ幼いといってもいい。

同じ場所にいるだけで幸せと思える心とは裏腹に、物足りないと疼くオレの身体がある。
そう、時に衝動は強くなる。

だけども、強引にオレの気持ちを押し通せば、きっとマリナは逃げてしまう。
だから戒めていたのに、感情は理性をいとも簡単に飛び越えて、その先を求めるばかりだ。

悪ふざけの中からでも、オレの意図を少しでも理解してくれればと願っていた。

だが、彼女にとっては違っていた。

ゆえに、マリナは逃げた。

オレとマリナの距離は決して埋まらない。
その事実を突きつけられて、心に巣食うのは翳り。

だけども、逃げられたからといって、このまま放置できようか？

アルディの敷地外は、オレの目が届かない場所。
パリの治安はそう悪くないが、異国の少女が民族衣装の薄衣を纏って平気でいられるほどよいわけでもない。

「マリナっ」

返事はない。

敷地外は革命記念日で賑わっているというのに。
たった一人の女がいない。

「マリナ、どこだっ」

普段とはかけ離れている賑わいの１６区。

革命記念日の華やかなイベントを享受するために国内外から沢山の人が集まっている。
この界隈も例外ではない。

人ごみの中で、マリナがどうなっているかという心配ばかりが募り、落ち着かない。
あの浴衣姿のマリナはある意味、男を引き寄せる。

あまりにも可愛すぎて。

フランス語もたどたどしいであろうマリナに付け入る男は多いだろう。
毒牙にかかる場面を想像するだけで、心は乱れる。

「マリナっ」

マリナの姿はどこにもない。

賑わいの街の中、自身の周りが色褪せ、音が消えた。
こんなにも人で溢れているのに、マリナがいないだけで、全てが無機質になっていく。

マリナがいない世界など、オレにとってはどうでもいい。

だが、まだマリナはいるはずだ。

オレの鼓動はマリナを求めて止まらないのだから。

オレは走る。
マリナを求めて。

そんな中、オレの耳に飛び込んだかすかな声。

「どうしよう…帰れない」

急に世界は色づく。
確かにマリナの声だ。

どこに彼女は居る？
オレは更に気配を感じようと全神経を集中する。

「シャルル…」

確かにオレの名を呼ぶマリナに、心は急に浮き立つ。
人ごみの流れに逆らい、ただ、その声がした方向へと向かう。

「あたしって…考えなしだわ」
間違いない。彼女の声だ。

オレはその声がする方向へと急いだ。

人の流れからそっと離れるように。
大通りから少しばかり遠ざかった石畳の道端に……マリナはいた。

鼻緒を切らしたのだろう。小さな身体がしゃがんで更に小さく見えて仕方ない。
手持ち無沙汰に、自ら履いていたであろう下駄を目の前でプラプラとさせている。

マリナを認識しただけで、オレの目は色を捕らえた。
日の傾きかけた薄闇であっても、そこにマリナがいる。
それだけで世界は光に満ち溢れた。

無機質から有機質へと。

「あたしってどうしてこう考えなしなんだろう…」

その柔らかい声が、オレを震わす。

マリナはいるだけでいいのだ。

それだけで、オレの世界は色づき、音が甦った。

「本当に君は考えなしだ」

オレはマリナを抱き寄せた。

オレはマリナに今後も振り回されるだろう。
それも、悪くない。

良くも悪くもオレを突き動かすのは彼女だけなのだから。